2012年7月19日

すぐには解決しないこと

NHKの「義経」をみつけた。
http://videonavi.blog66.fc2.com/blog-entry-252.html

第4話27分の兵書『六韜』がどう見てもホッチキス留めの台本であり、12世紀の状況としては不自然であるが、17分めの鬼一法眼の台詞がすばらしいのでメモ。

義経:忘れることもできず、割り切ることもできず、どう考えたらよいのか。
法眼:忘れることも、赦すこともない。あるがままに受け入れよ。
義経:それができぬ。
法眼:ならば考えぬことである。
義経:どうすれば?
法眼:悩みぬけばよいではないか。闇のまっただ中を彷徨ってもよいではないか。
   そのうち陽も射す。それがこの世の定法である。

「すぐに解決」を求めない、こうした達観のスタンスは、ジンネマンの『尼僧物語』にも一部あらわれていた。
監護でSr.ルークが掟を軽視して危機に陥った後の、先輩修道女との対話。

ルーク:心の平安は、本当に、おとずれるのでしょうか。
先輩:平安などおとずれません。日々たゆまず歩むだけです。

2012年7月5日

本を「はかない」ものにする

アルゲリッチの故郷アルゼンチンで、
 (アルゲリッチとは関係ないけど)
「本をはかないものにする」という革新的なアイディアが出た。
新人作家を応援するためだそうだ。
http://gigazine.net/news/20120704-disappear-book/

とても革新的だが、現実的な効果がよくわからない。

自炊してリーダーを持ち歩くタイプの読者にとっては、従来とおんなじことではなかろうか。

また、よろず新しいモノが好きな人は「そういう形態のモノ」を1冊ぐらいは買って、2ヶ月後に「ほんとに消えたよ!」とか話題にするだろうけれど、読書は大好きなのに忙しくて「とりあえず購入ボタン押しといて休暇に読もう」というタイプの人は、絶対に買わないと思う。後者の購買者をあてにしない出版形態は、新人作家を応援することになるんだろうか。

そして、国立の中央図書館への納本時には、一般的なインクによる別立ての本を用意してくれるんだろうか。国立の中央図書館でも、空気よけのパッキングをはがさずにそのままとっておく、というイメージなんだろうか。どちらも不可能、という場合、後代の(というか2ヶ月目以降の)研究者は、初版本にアクセスできない、というわけだろうか。

2012年6月3日

日本映像学会第38回大会終了

日本映像学会第38回大会(http://jasias2012.main.jp/content/)終了。
twitterで自分の作品情報を公開している作家が多いらしいので、あっちにも復帰することにした。少なくとも気持ちだけは。でも、つぶやきチェックって、ちょっと面倒になってしまうときもある・・・。

今回は、お友達の映像作家・杉田このみさんの最新表現方向にもふれられたし、そして、刺激になる研究発表が多くて、感激であった。
ア ンサンブル・フィルム研究の桑原圭裕さんは、『美学』に事例研究論文(アルトマンの『ショートカッツ』他)があったんだけれど、今回の大会では、体系的な 理論分解をやっていて、これはまた本当にすごーかった。重層的に映画を体験している自分を客観的にみつめるのは、とても集中力を要する作業だし、各関連文 献の記述読解にも繊細さが必要とされる、すごーい研究だ。
「動画像系列」のカッティング長さによる知覚(反応?)について研究している鈴木 清重さんの発表もすばらしかった。メインの研究手法はカッチンカッチンの実験心理学なのに、創作畑や鑑賞畑の人間にとってもググッと関心をもちうる形で研 究が進められていることが魅力だ。同じようなスタンスで研究されている井上貢一先生が、他の会場の司会を担当なさっているのが、お気の毒でお気の毒 で・・・。
懇親会は、司会にあたらせていただいた。うっかり「日本芸術学会の」と言ってしまったのは非情に恥ずかしい失敗だったが、でも懇親会では、鈴木先生と井上先生をお引き合わせできて、とってもよかった。
カヴェルの映像論を批判的にみなおす木原圭翔さんの緻密なお仕事にも刺激をうけた。
バウハウスがらみの「光イメージ」作品(とくにヒルシュフェルト=マック)の制作法と作品をめぐる概念について丁寧に分析している山根千明さんの研究もとても緻密で、あの時期の実験映像の現場の資料を沢山見られたのもすごくよかった。

さやかも来年は3歳。
このごろは、どの都市にも一時保育OKの託児所があることだし、学会にも少しずつ出かけていきたい。

2012年3月26日

「第43回」を非開催に

サントリー音楽賞についてであるが、
受賞者なしの理由は「自粛」ではない。
「公表しない」のだそうだ。
異義あり、というか、理解不能だ。

私の考えは「第43回」を非開催にすればぁ? というもの。

http://www.asahi.com/culture/update/0322/TKY201203220411.html
 
規定によれば、サントリー音楽賞は「音楽界に貢献した個人や団体」に与えられる賞ということだが、「受賞なし(理由は公表しない)」という結論から聞こえてくるのは、

  2011年は音楽界に貢献した人がいなかったっていうかぁ
  でもはっきり否定したいわけでもないんだけどぉ
  でも、貢献した人がみつからないっていうかぁ
  誰が貢献したか、よくわかんないっていうかぁ


という語りである。


演奏のための音楽コンクールで「1位なし」というのは、その賞のグレードを示したいから「1位なし」にするのであろう。コンクールというものは、参加者がすでに居るから開催自体は明らかで、これはもう取り消しようがない。

でも参加制のコンクールでなく、状況を後から回顧する方式(外から勝手に審査する方式)のナントカ賞で「受賞なし」にするのは、景気のわるい話題を無意味に バラまく行為のように思えてしかたがない。こんなことをしても、その賞のグレードを示すことにならないし、むしろどちらかといえば、意地悪な結論の中に、審査員たちの取材不足を放置し、怠慢をさらすことだと思う。

サンデーモーニングに、親分たちが「あっぱれだ!」とか「喝だ!」とか叫ぶコーナーがある。
時折、関口宏が「えっ?これ喝なんですか?」と尋ねるようなケースでも、親分たちが意外なスジ論を並べてくれて、「おおなるほどそれが日本の武士道だよねえ、うんうん忘れてた」と納得させてもらえる。
「喝」ばっかりの記事を並べちゃうと番組の雰囲気がポシャるであろうし、万が一、親分たちが「理由は公表しない」「我々の見識を想像しろ」と、ふんぞりかえっていてはコーナーが成り立たないので、親分たちの出演枠もなくなる。

2011年は、津波で開催が不可能になった会場や、原発事故のあおりで来日を手控えざるを得ない演奏家が居た中、それをはねかえすような活動(演奏や創造や運動)でもって「音楽界に貢献した個人や団体」は、たんとあったはずである。

2012年3月11日

トリック

ドラマのトリック・シリーズの第5話に示されているのは、過疎地の素朴な村民たちが、現実の選択において物理学者の浅知恵など何ら信じていない、ということ。

「まるごと消えた村(解決編)」http://goo.gl/cgSks
宝女子村の村長 : 俺たちは25年ごとにお鶴に生け贄をささげねばなんねえ。さもなくばこの村にとっつぇもねえ災いがおとずれる。干ばつ・地震・大雨・バッタ・エルニーニョ。(中略)儀式を前田さんに見られた俺たちは、とっさに三井を利用することを思いついた。三井の超能力で前田さんば消されたと世間さ思わせる。
上田次郎 : そんなバカな話、人々が信じるはずないだろう。
宝女子村の村長 : んだっきょ? 実はおめえのような偉い学者先生が、俺たちの村さ調査来ると聞いた時、俺たちはしめたと思った。おめえさえ騙せば、世間はミラクル三井の超能力を信じるにちげえねえ。おめえが戻って、この村で見た奇跡の数々を証言してくれさえすれば。
売れっ子マジシャンの山田 : 上田さん1人なら騙せたと思います。

遠藤周作の『沈黙』にあった「農民のしたたかさ」という表現を思い出させる。物理学者の言うこと(3分ビデオ「絶対安全」http://goo.gl/D5XwQ)など誰も信じないまま、とりあえずその場の損得勘定を使うのである。


さて、『トリック』において「学者の理論より常識のほうがまともだ」という基調モチーフと併せて、しばしば示されるモチーフに、インチキを曝いても救いにならないことがある、というのもある。

「母の泉」の末尾
菅井きんの部下 : 正しいことしたつもりか? 見ろ、なんも変わっちゃいねえ。ビッグマザーを失ったあいつらに何が残る? 希望も救いもねえ人生が待ってるだけだ。本当にあいつらを救おうとしたのはどっちだ? おめえたちか、おれたちか?

「千里眼」の末尾
病気の少年 : 先生、ぼく治らないの? 死んじゃうの?
千里眼の男 : そうだよ。先生はインチキだからね。

2012年2月27日

2月の日誌

稲田先輩を見習って業務日誌をつづってみることにしたのだが、書いてみたら、なにやら遊びのことばかり・・・。反省のためのウェブ日記になりそうだ。

●2月1日WED 創立100周年委員会。マタイ受難曲上演(2016)にむけた「西南オラトリオアカデミー」の募集準備。なお2012年はモツレクで11月3日に上演予定//かな書道は連綿に挑戦で「いね」「うた」//ドッグラン(=さやかの運動をこう呼ぶ)で八百屋さんに行くと、さやかがカゴにボトンと野菜を入れてしまうので、なんとなく大量に買う羽目になっていた。六本松のTSUTAYAでは、さやかチョイスのジャケ借りでDJHelloKitty。
●2月2日THU 3〜5時に夜泣き//後期は3科目15回分、ほぼ毎回小テストした上に、レポートまで書いてもらったので採点に難儀。来学期の小テストは半分程度にしよう。//共通教育センター設置準備委員会。2010年11月の大学設置基準改正で「学生が卒業後自らの資質を向上させ、社会的及び職業的自立を図るために必要な能力を、教育課程の実施及び厚生補導を通じて培うことができるよう、大学内の組織間の有機的な連携を図り、適切な体制を整えるものとする」という文言が盛り込まれたことの対策を協議。関連GPをとった他大の動向をみると、具体的には「キャリア」という言葉をもりこんだ正課の授業を作る必要があるようだ。名称上、就職教育ではなくキャリア教育になっているところが味噌のようだ。こういう重要単語は、個別例としては意義深いのに、全員必修とかにすると安っぽい横文字にしか見えなくなるなあ。ふだんから、生き方教育ざんまいの西南において、各内容を薄めてしまわずに、学生に伝えていく方法を模索しなければ。
●2月3日FRI コンサート委員会。キャンパスサポートの実務力をいただいているとはいえ、宗教局管轄でどこまで突き進めるのか不安だったが、前回あたりから総務課や広報課が陪席してくださるようになり、やりたいこと一つ一つを具体的に話しあえるようになった。ありがたいことだ。//採点がなんとかおわった//夕方、夜泣き対策の小児鍼。
●2月4日SAT 唐人町でサンキュー事故してしまった。前に障害物があったのだから頑なに停車しておくべきであった。すれちがいざまにミラーどうしをこすって、相手のミラーに2cmほど私のペンキがついた。//午後は主人にさやかをあずけて、日演連「福田さあやリサイタル」(3月2日)の楽曲解説準備。
●2月5日SUN 教会に行く途中でさやかの猛烈ウンチが発生し、下痢気味だったので直帰。お腹が冷えたのかもしれない。でも活発で、キティーちゃんテープでこんがらがったまま「んった」と喜んでいる。午後はLEGOブロック。このところLEGOが急に上達した。//主人は当直なので、今日作った鮭のクリームシチューは明日の夕ご飯にもなりそうだ。
●2月6日MON 4時に起きて5:30から8:30まで楽曲解説を書く。4:20には身支度できていたのに5:30までとりかかれなかったのは、書評みたりFacebookみたりして遊んでいたから。//職場から定期健康診断書を提出せよ、と言われていたので午後は赤坂で検診。風邪で咳の発作がでるたびにNHOで血液検査しているというのに身長体重計って。//検診の待ち時間に山本文房堂でダーマトグラフを買った。へえ105円で買えてしまうんだ。//SALE中のヨシノヤ(岩田屋)では茶と紫を絶妙にあわせたパンプスに出会ってしまった。今朝の原稿料のほぼ70%を投入したことになるが、ヨシノヤのレザーソール・クラスが自分にぴったりの22cmEEMで、RIZと同等価格(47800→17800円)だったら買わずにいられないでしょう。//当直明けで食欲がないとかで、シチューは明日の朝食に持ち越し。
●2月7日TUE 朝食にようやくシチュー登場。あとは卵サンド&トマトサンド//入試の試験監督デーなので、いつもより1時間はやく保育園へ。今月は保育園の月謝をお持ちするのが遅れてしまった。松屋菓子舗の鶏卵素麺をそえて提出。//マンネリお弁当は文句も言わず食べてくれているが、おやつ用のパンのサイコロ切りはボイコットされたので、今日はチーズ・サンドにしたところ完食。次はお弁当の改革だ//夕飯は、豚とキャベツのミルフィーユ煮と、シチューの最後の余りを使って南瓜のドリア。//主人の職場で「ストロベリーナイト」が話題だとかで社交用の鑑賞。んんん私たちには重い。事件は水戸黄門のように一話完結型で解決していただきたい。それに都内勤務の通勤事情を考慮するならば、バーキン常用は、絶対にありえぬ。ちなみに私のヨシノヤ靴は、とっておきのコンサートと会合のために研究室のロッカーにしまってある。
●2月8日WED 学院主催の音楽行事のためのチラシ校正2件にそれぞれ1時間ずつとられた。まあ音楽会好きの職場の空気そのものは幸せであるが、音楽学部があるわけでもないので担当スタッフ数が少ないのが難点。//押し入れからみつけたWATERMANのボールペンとても使いやすい! 滑らかとはこのことだ。気持ちよくて次々書きたくなってしまう。//こっこれは可愛い! クローゼット収納について考察。Zurich生命のガン保険(10年もの)を更新した。2002年からの10年間は年額4690円だったのが、2012年から年額9800円に。ローリスクを買うにはお金がかかる。
●2月9日THU 入試の試験監督。国語現代文は問題はたぶんこういうもんだんだろうぐらいしかわからないが文選(柳宗悦「工藝文化」)がとてもよかった。//名刺交換したら「あブログ読んでます」と言われた。どう返事すればいいのか分からなかったが、感想をいわないまま関心だけ示す、という日本的特性をかみしめることにした。//さやかが車内を嫌がって号泣。明日はあまり寒くなければ電車にしよう。2歳の誕生日から始めたトイレトレーニングが、たった2週間で着実に上手になって睡眠時のみで済むようになった。洗濯物が減って大助かり。
●2月10日FRI 朝5:00〜5:45夜泣き//入試の試験監督//「ドンナコトにも疑問ヲ持トウ」教育の成果だろうか、「なぜ落ちたかわかりません。私はレポートも出しました。」という趣旨のメールが来た。「小テストが15回中6回分しか提出されておらず(=15分の6出席)、その中身がそれぞれABCのBで、レポートがABCのCだったからです」という趣旨で返事した。//ナオミさんが食品を出している北欧雑貨店「TRAM」へ。ちょうど「北欧ミニバック100枚と2月のお菓子」展が開催中。さやかが店内を荒らさず(!)行儀よくしてくれていて助かった//ウェブニュース(47news)で驚愕。菅井円加さんのローザンヌ優勝報道が「スポーツ」に分類されていた。ま、野球やゴルフなんかも、芸術といえば芸術であり、スポーツであるといえばスポーツなのだろうが。
●2月11日SAT 「キティーちゃんシールブック」で遊ぶ//ピザ生地はイーストが多すぎてパンパカパンになった。次回は慎重に。//大阪フィル(24日・アルカスSASEBO)を聴きに行くためにホテルと一時保育とご飯の場所などもろもろ予約//Facebookのタイムライン画面は全然いいと思わないけれど知覚を馴らすために一応チェックしてカバー画像をデスクトップと同じものにしてみた。//お風呂掃除のときに転んで向こう脛に打撲。でも突き指や顔の怪我はなかったし、そばにさやかが居なくて、本当によかった。
●2月12日SUN 確定申告作成サイトが始まっている。手帳に入れてしまわないと先送りにしそうなタスクのナンバーワン。//久しぶりに家族で出かけられたので、岩田屋新館の香港蒸籠でバイキング。すべて小ぶりでとてもおいしい。さやかはフカヒレスープがいたく気にいった。こんど卵スープでも作ってみよう。//
●2月13日MON 先日NHKが座骨神経痛に貧乏ゆすりが効くとか報じていたが、そんなことしたくないので、午前中は整骨サロンでじっくり治療。//大友直人指揮の日フィルwith岡崎慶輔を聴くために、保育園お迎えは主人にお願いした。夕食の準備について考えないせいか午後の原稿も俄然はかどった(NHK放送記念日用「火の鳥」)。この作品についてはあまり知らなかったのだが、舩山門下生として「ストラヴィンスキー作品については書くこと一杯でこまっちゃうわ!」となれるよう、ここ数日にわかに学んだのである。これのおまけで、ロックバンドのYESが1991年ツアーのオープニングで「火の鳥」を使ったことを知った。
●2月14日TUE 今日は入試の採点デー。一斉昼食で他学科の先生方とも交流できて楽しかった。//朝食のときにサンドイッチとシチューに加えて生チョコをだしたら「これはさすがに夜くうばい」ということでチョコは冷蔵庫へ。夕方、事件発生で帰れないとメールがあったが明け方に隣をみたら居た。しかしチョコは冷蔵庫にあった。すごくおいしいのを買ってきたゆえ私が食べたいので早く包装をほどいて。
●2月15日MON かな書道は先週いただいたお手本で「さす」「つき」「なく」を練習。


脱落、断念。

毎日1月号:ミョンフンのこととオルガンのこと

手元のメモ

Debussy
  • 拍子感明瞭で弦のdivigeさえも分離
  • やろうとしていることが伝わってくる
  • 音の粒が明瞭でppらしくない。版画が擦りきれる前はこうなのか、ぐらいの。
  • 第1部ラストのTimpaniによる盛り上げの迫力
  • 絵画的というにはほど遠い版画/造形/立体的な表現
  • 北斎の富嶽百景 → 富士山と波としぶきが各パーツとして分離 → 版画の彫り
  • この演奏を聴くと、当時ジャポニズムが流行していたから表紙に貼った、ということ以上に、北斎への近さを感じる。版画史における北斎の位置を知っていたら、もっと何か言えそうなのだが。
  • ミョンフンは冷めたN響でも燃えさせる
Mahler
  • 1楽章と3楽章の不吉感がすごい
  • 4楽章  キビキビと向きを変えて、両手をビシリと開く様子は、まるで十字架
  • 4楽章  向かい合う2組のティンパニの掛け合いがすばらしい
  • 4楽章  金管の空間的方向性を強調するように、Soliとして立たせる
アンコールは、Brahmsハンガリー1番。大編成を生かしたしっとりと大人で豊かな演奏。

    2012年2月21日

    F.X.ロト指揮のマーラー

    昨晩は、F.X.ロト指揮の南西ドイツ放送交響楽団を聴いてきた。

    マーラー5番は、なんの見栄もきらずに、スラスラ・サクサク・トットコと前に進んでいった。
    これまで聴いたマーラーは、フレーズ間にテンポ変化があったりとか、いろんな見せ場にみちたもので、だからこそ、ウィーンは文化のるつぼです、耳の記憶な んです、路上の石ころがプリズムになるんです、という読書との連動があったりしたが、今回のは「え”っえ”っもう次?」と戸惑いの連続。

    客観的に距離をおいて達観すればミニマルな快感がおとずれるのではないか、というアイディアが浮かんだので、第3楽章の半ばで割り切り方向にシフトチェンジしてみたけれど、期待通りにはならなかった。

    ロトさんって老けたお顔のわりに若くて(1971生)、指揮界でいったら「超若手」であるだけに、なんというかこうハイパーなスキゾなかんじが売りなのかもしれな...い。
    すでに時代は、楽章ごとの位置づけを純交響曲的に明晰にうちだす、ってなことをマーラーでやってみせる段階まできてしまっているのかもしれなくて、そうい う最新スタイルの演奏についていけないことの露呈は、イコール、自分の日頃の鍛錬不足を暴露するにすぎないので、なんとしてでも満足ポイントをみつけたい ところではあり、よって、涼しげに「とても爽やかな演素」とでも語っておく・・・・・・のは簡単。ついていけない私の本音は・・・・・・演奏は決して乱暴なものだったわけではないのだが、なんというか、ユダヤにもウィーンにも形式的特殊性にも目をくれない態度のなかに、「そんなの関係ねえ」的な非紳士性を感じた。

    けちってA席(ぴあで3階2列)にしたのが悪かったのかなあ。

    2012年2月4日

    現実の直視と「みんな」

    大崎茂生の『文化としてのシンフォニー』1巻
    92 なぜハイドンは歴史に遺り、モルターや、ポコルニーや、ロセッティは、なぜ忘却の彼方に消えたのか
    94 シンフォニーが定着する条件とは要するに何かと考えてみると、宮廷にしろ市民レヴェルにしろ、その前提となるコンサート生活が定着しているかどうかが第一であった。

    ところで、
    幼児の悪戯や中学生の悪癖をとめるにあたり「みんなやってるし・・・」という言説は、ビシッと否定して、現実にもどしてやらなければならないが、

    ヨーロッパ留学組の人々が日本のクラシック不振を嘆く際に口にする「ヨーロッパの大人はみんなクラシックのコンサートにでかける」における「みんな」も、かなり怪しいかもしれない。

    人の習性は個々に異なって当然であるし、まさに自分の「やりたいこと」が盛んな都市を選んで留学してきた人が、その都市をガバッと含むヨーロッパ全体を一色に論じるにあたって、自分の「やりたいこと」に染まった色眼鏡がかかっている可能性は、大である。

    2012年1月29日

    やりたいこと

    久木元真吾の論文「“やりたいこと”という論理--フリーターの語りとその意図せざる帰結」を読んだ。
    フリーターという概念があるからそこに居場所をみつける、という状況がありうることもふまえた上で、別の側面から「意識」をさぐるために、97人分約500ページのヒアリング記録(日本労働研究機構の調査研究報告書136:フリーターの意識と実態)を分析したもの。

    以下3点を抽出した上で
    • やりたいことかどうかが、仕事を続ける前提である
    • やりたいことは、今わからなくてもいい。という前提がある
    • やりたいことは、自分のプロセスにでなく自分の外部に実在する、という前提がある
    その帰結として、
    • 良いフリーターと悪いフリーターという上下観がある
    • やりたいことを見つけるプロセスからリタイアしにくい
    などの現状があること、そこには、そもそも、「やりたいこと」でなければ到底続けられなそうだと感じるほどの労働条件の悪化も背景であることなどが、淡々と書かれている。

    そう、たしかに
    「やりたいこと」の奨励と、それを外部的に「こたえる」ことの要請は、今、強すぎる。
    なにしろ朝っぱらの8時から、アンパンマンのマーチがこんなふうに流れる。

     1番          2番
     なんのために生まれて  なにが君のしあわせ?
     なにをして生きるのか  なにをしてよろこぶ?
     こたえられないなんて  わからないままおわる
     そんなのはいやだ!   そんなのはいやだ!

    生の肯定や、自由の肯定の方向性が、強すぎてふりきれちゃっている。
    こたえられなくても、なにかをして生きていれば、よろこべたり、しあわせだったりするかもしれないのに。

    2012年1月27日

    ミョンフン

    チョン・ミョンフンについて新聞に書くにあたり、2回目以降の呼称法を「ミョンフン」にするつもりが「チョン」と表記することになったが、なんだかすごく違和感があった。口語でミョンフンと呼ぶのはキョンファやセフンがいることもあってだろうが、しかし文字上でも、「尾形」「葛飾」「ダ・ヴィンチ」でなく、「光琳」「北斎」「レオナルド」と書くのがふつうだ。
    こういう感覚は、「境さん」「福山さん」なる呼称法に納得のいかない自分と、どう同居するんだろうか。

    2012年1月25日

    連載の末尾

    「それでは、内容はどんなものか。問題点はないのだろうか。 」

    こ、こんなところで終わる原稿があるとは・・・。
    1743字語ってきて、これ?

    ... いくら連載だといっても、これ、不定期連載の欄なんですけど。

    山上浩二郎の大学取れたて便 @ 朝日新聞

    2012年1月22日

    Grade Point Averageのこと

    同僚が成績評定の基準化を提案した。
    GPA評価が選考に用いられる場合などに配慮して、こういうことも公平性確保のために考慮すべきという考え方のようである。
    ここでいう公平性とは、要するに、楽勝科目ばかりでGPAが高いケースと知的にゴリゴリ選び抜いてGPAが低いケース、というような差をなくしましょうということ。
    たとえば S:5%以内、S+A:30%以内、BとC:特になし、D+E:30%以内とか。
    このパーセンテージ割振自体は、整合的でまともなものに見える。

    このことについて、Facebookで書いてみたところ、元同僚が、FD研究会ではこうなっていたよ、というのを教えてくれた。
     S 予想を超えて優れている
     A 優れている
     B 標準的である
     C 最低の水準を満たしている
     F 水準を満たしていない

    上記の割振が、まことに整合的でまともであることを、さらに確認する思いである。

    しかしながら、感覚的には抵抗を感じる。
    「大学は絶対評価ですよ」と言われてきた体験から、ここに相対評価的な原理を持ち込むことに、抵抗があるのだ。

    それにね、

    ソルフェージュとか、語学の基礎とか、特定の測定方法の実習といったリテラシー科目の場合、教員は、全員が100点をとれるように教育しているんじゃないかと思う。
    ある特定の技能について習得できるように、そこではクラスの全員が過不足無く、つまり、「予想を超えて」といった欲が生じないほどまんべんない完璧さをめざして、あらゆる技巧をつかって指導しているんじゃないだろうか。

    音大にいたころ、ソルフェージュの基礎クラスで100点をとれる学生の割合は、年度によってもクラス分けによってもまちまちで、30%だったり50%だったり70%だったりした。
    こういうリテラシー科目にも、「優れているのは30%以内」などという網をかぶせて大丈夫なのかしら。

    これとは、ちょっと別のことなんだけれど、ちょうど愛読するブログ「考えるのが好きだった」で、相対性を求める教育の是非が問われていたので、リンクしておく。
    http://blog.goo.ne.jp/kkhrpen/e/e0e8e2d23993f1e5e60ebd0bf60aa2af

    2012年1月20日

    寝坊した

    今朝は寝坊をしてギリギリ出勤だったので、さやかのお弁当やおやつを作れず(涙)、サニーで、かしわご飯とひじきとポテトサラダとソフトロールを買って間に合わせた。
    それに、主人のお弁当は、もう半年ばかり作れていない。
    こんな生活じゃだめだ。

    2012年1月19日

    関心と意欲のモラル・バランス

    インサイダー取引が禁じられるということ、それは正当なことだけれど、こういうニュースをみるたびに、自分が、インサイダー取引が可能な業種でなくてよかった、という思いを抱く。

    要は、関心と意欲のモラル・バランスということだと思うんだけれども、職務上知り得た情報を一般公表前に自分のために活用する、という業務パターンがもし禁止されたら、音楽イベントを企画している人間が音楽ジャーナリズムにたずさわる(そこから原稿料をいただく)、そして書くことで客観化して、あらたな企画の発想を、というような情報と業務の連関は、完全に無理になる。

    ミョンフンの海

    チョン・ミョンフンのソウルPOを聴いてきた。

    曲目が、ドビュッシーの海とマーラーの巨人という組み合わせだったので、「ピアニシモとフォルテシモを聴く会」という先入観で出かけたのだが、「ドビュッシー=ほとんど無」というジャンケレビッチ的言い回しの陥穽にはまってはならぬ! ということを痛感させられた。
    くっきりはっきりきっぱりと立体的に造りこまれた響き。
    印象派(絵画)か象徴派(文学)かというヤロチニスキの議論以前に、そもそも、《海》の初版表紙に使われたのは、まさに版画(北斎)であって絵画(モネ)ではなかったのだなあ〜。

    ベビーシッター制度のおかげで、コンサートは、なんだかんだと月3-4回行けているが、大会に出かけるとかいった学会活動は、かなり休んでしまっている。
    復帰の暁には、もらったレジュメをドキュメントフォルダにはさんでビシッと歩きたい・・・とか思うんだけれども、それって要するに、学問への思いより煩悩が先行している状態。