2012年3月26日

「第43回」を非開催に

サントリー音楽賞についてであるが、
受賞者なしの理由は「自粛」ではない。
「公表しない」のだそうだ。
異義あり、というか、理解不能だ。

私の考えは「第43回」を非開催にすればぁ? というもの。

http://www.asahi.com/culture/update/0322/TKY201203220411.html
 
規定によれば、サントリー音楽賞は「音楽界に貢献した個人や団体」に与えられる賞ということだが、「受賞なし(理由は公表しない)」という結論から聞こえてくるのは、

  2011年は音楽界に貢献した人がいなかったっていうかぁ
  でもはっきり否定したいわけでもないんだけどぉ
  でも、貢献した人がみつからないっていうかぁ
  誰が貢献したか、よくわかんないっていうかぁ


という語りである。


演奏のための音楽コンクールで「1位なし」というのは、その賞のグレードを示したいから「1位なし」にするのであろう。コンクールというものは、参加者がすでに居るから開催自体は明らかで、これはもう取り消しようがない。

でも参加制のコンクールでなく、状況を後から回顧する方式(外から勝手に審査する方式)のナントカ賞で「受賞なし」にするのは、景気のわるい話題を無意味に バラまく行為のように思えてしかたがない。こんなことをしても、その賞のグレードを示すことにならないし、むしろどちらかといえば、意地悪な結論の中に、審査員たちの取材不足を放置し、怠慢をさらすことだと思う。

サンデーモーニングに、親分たちが「あっぱれだ!」とか「喝だ!」とか叫ぶコーナーがある。
時折、関口宏が「えっ?これ喝なんですか?」と尋ねるようなケースでも、親分たちが意外なスジ論を並べてくれて、「おおなるほどそれが日本の武士道だよねえ、うんうん忘れてた」と納得させてもらえる。
「喝」ばっかりの記事を並べちゃうと番組の雰囲気がポシャるであろうし、万が一、親分たちが「理由は公表しない」「我々の見識を想像しろ」と、ふんぞりかえっていてはコーナーが成り立たないので、親分たちの出演枠もなくなる。

2011年は、津波で開催が不可能になった会場や、原発事故のあおりで来日を手控えざるを得ない演奏家が居た中、それをはねかえすような活動(演奏や創造や運動)でもって「音楽界に貢献した個人や団体」は、たんとあったはずである。

2012年3月11日

トリック

ドラマのトリック・シリーズの第5話に示されているのは、過疎地の素朴な村民たちが、現実の選択において物理学者の浅知恵など何ら信じていない、ということ。

「まるごと消えた村(解決編)」http://goo.gl/cgSks
宝女子村の村長 : 俺たちは25年ごとにお鶴に生け贄をささげねばなんねえ。さもなくばこの村にとっつぇもねえ災いがおとずれる。干ばつ・地震・大雨・バッタ・エルニーニョ。(中略)儀式を前田さんに見られた俺たちは、とっさに三井を利用することを思いついた。三井の超能力で前田さんば消されたと世間さ思わせる。
上田次郎 : そんなバカな話、人々が信じるはずないだろう。
宝女子村の村長 : んだっきょ? 実はおめえのような偉い学者先生が、俺たちの村さ調査来ると聞いた時、俺たちはしめたと思った。おめえさえ騙せば、世間はミラクル三井の超能力を信じるにちげえねえ。おめえが戻って、この村で見た奇跡の数々を証言してくれさえすれば。
売れっ子マジシャンの山田 : 上田さん1人なら騙せたと思います。

遠藤周作の『沈黙』にあった「農民のしたたかさ」という表現を思い出させる。物理学者の言うこと(3分ビデオ「絶対安全」http://goo.gl/D5XwQ)など誰も信じないまま、とりあえずその場の損得勘定を使うのである。


さて、『トリック』において「学者の理論より常識のほうがまともだ」という基調モチーフと併せて、しばしば示されるモチーフに、インチキを曝いても救いにならないことがある、というのもある。

「母の泉」の末尾
菅井きんの部下 : 正しいことしたつもりか? 見ろ、なんも変わっちゃいねえ。ビッグマザーを失ったあいつらに何が残る? 希望も救いもねえ人生が待ってるだけだ。本当にあいつらを救おうとしたのはどっちだ? おめえたちか、おれたちか?

「千里眼」の末尾
病気の少年 : 先生、ぼく治らないの? 死んじゃうの?
千里眼の男 : そうだよ。先生はインチキだからね。