「脳内メーカ-」シリーズで、私の脳内は「食」の周りに「友」がならび、前世の脳内でも「飯」の周りに「誠」がならぶ。私は食べることと縁が深いようで、ちょっと意外。
それにしても、問題は「カレンダーメーカー」である。仕事名(旧姓使用)では「忙」の字がならびまくり、本名(新姓使用)では「休」の字がならびまくる。家庭の役割を、もっとちゃんとしなくちゃいかんぞ、という忠告のように思えた。
さて、就職活動のシーズンも深まる今日この頃、学生さんの「就活きつすぎますよ〜」に始まり、科目外の雑談の機会がふえて楽しい。
学生の話によると、FD制度ならびに「学生による授業評価」制度の批判を、授業中にガンガンやる先生がいるらしい。
あの制度には、たしかにそうとう的外れなところがあるけれど、その批判で授業をつぶすのはちょっと違うかなと思う。
文系の教員は、まず「科目の到達目標を明確に」なるFD的要請に抵抗を覚えがちである。その抵抗の趣旨は「到達目標を簡単に示せるような薄っぺらい中身は本当の教育ではない」「教育の成果はもっと総合的なものだ」という主張である。
しかし、単位制で資格を授与する以上、まあなんらかの到達目標の組み合わせとしてカリキュラムをくむ必要があるのも現実的に妥当な状況だと思う。
FDの一環として行われがちな「学生による授業評価」の問題点として、「教えを受ける立場の者は学習内容を未把握なので教師を評価させられない」というものがある。すべての研究者は、ごくごく未熟なうちから、過去の研究成果を評価・批判することによって、研究を更新してきたが、「学生による授業評価」が匿名アンケートの形式をとっている点は、論文による批判とは構造的に異なるわけである。匿名でなく記名、かつ、全員提出でなく任意提出、という条件をみたせば、いつも論文でやっていることの繰り返しとして、もっと受け入れやすくなるのかもしれない。
社会からのFD的要請には「卒業後の就労と授業をリンクさせよ」というのがある。こういうのは、文字通りとれば浅薄で下らない要請であって、「大学は哲学の府として成立したのであり、個々の職業家養成は専門学校の仕事だ!」と、怒りののろしがあがる。しかし、そのあたりは巧みに読み替えて、「学生がどんな職業についたとしてもふと思い出してもらえるような中身」=「就労とのリンク」ということにして、各科目の中身にいちいち関連づけて作文すれば、少なくともしばらくはわたっていけると思う。
玉川大学のFD資料「今「文学部の授業」が面白い」(http://www.tamagawa.ac.jp/humanities/news/news10.html)は、シラバス書類の書き方の具体例にもなっていた。また、北大のFD要綱(http://socyo.high.hokudai.ac.jp/FD/fd.pdf)も、読むだけならかなり説得力があった。
ただし、北大のFD要綱内でバラバラに記された「学生の名前と顔を覚えること」「学生を公平に扱うこと」を同時に満たそうとすると、それは要するに「週1回300人と会って、そこに居る全員の名前と顔をまんべんなく覚える」という要請になる。300人の名前と顔を覚えるなどということ自体は、各人と会って楽しくおしゃべりすれば可能かも知れないが、行うべきことのメインは講義であってお友達づくりではないので、どちらかを免除していただかないと、はっきり申して、到底まともな授業にならないであろう・・・なんてすばらしい〜。
>「卒業後の就労と授業をリンクさせよ」
返信削除私は日本の大学の状況から離れてしまって久しいのでそちらの具体的な様子は分からないのですが、ここでもコースのシラバスを書くときに学生の就職に向けての「Transferable skills」という項目がありますよ。私は主に音楽史と演奏法を受け持っていますが、前者の場合は「課題論文を書くことによってきちんとした読み書き法を習得する」とか「締め切りに間に合わせることを学ぶ」とか、後者の場合は「他学生とのアンサンブルを通してグループで作業することを学ぶ」とか、そういうことを「このコースで習得できるtransferable skills」として申告し、大学当局並びに教育省の認可を仰ぐわけです。仰るとおり、教える内容がどうこう、ではなくて、それに付随するいわば「Common sense」的なrequirementsを具体的に文章化すれば、音楽学のコースも結構「実学」だったりします(笑)。