2011年3月10日

つまずき

新教出版社の『聖書辞典』から「つまずき」「つまずきのいし」をノートしていて、レビ記19章の記述を印象深く覚えた。

.   耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、
.   目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。
.   あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。
.               (新共同訳)
ただ他人を悪く言ってはならない、ではなく、耳の聞こえぬ者を悪く言ってはならない、という記述は、悪く言ってよいのは相手の耳が聞こえる場合にかぎってである、といっているようだし、ただ他人の前に障害物を置いてはならない、ではなく、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない、という記述は、障害物を置いてよいのは相手の目が見える場合にかぎってである、という認識を示すと思う。

勝負事なら「リベンジの可能性のある形で勝負しなさい」ということに、学問なら反証可能性に、相当するであろうか。

文語訳では「汝聾者(みみしひ)を詛ふべからずまた盲者(めしひ)の前に礫物(つまづくもの)をおくべからず汝の神を畏るべし我はエホバなり」
口語訳では「耳しいを、のろってはならない。目しいの前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」

ただし、手元の仏語聖書には、接続詞maisが入っていて、
Tu ne maudiras pas un muet et tu ne mettras pas d'obstacle devant un aveugle, mais tu craindras ton Dieu. Je suis Yahvé.(耳の聞こえない人を非難したり、目の見えない人の前に障害物を置くのはよして、あなたの神を畏れなさい。私はヤハヴェである)
それゆえに、これとこれはダメの禁止の文言というより、「自分の周囲のあれこれについて愚痴を言っていないで、神さまへの畏敬を心に留めていなさい」という文言のようにも聞こえる。


躓き
信仰上の理解を妨げるものの比喩的表現。元来「躓き」という言葉は、レビ19:14にあるように、路上に置く障害物を意味したであろうが、預言者たちによってイスラエル人の神への服従の道をさまたげるものを表すために引用されている(イザ8:24, 38:7, 57:14, エレ6:21, 18:15)。
新約では、とくにキリスト、救い主が人間のかたちをとり、人間の生活をするお方として現れたことが、躓きとなったことを、イエスご自身の言葉として伝えた(マタ11:6)。さらに贖いのための神の子の十字架の死が、信じない者にとっては大いなる躓きとなることをパウロは言っている(ロマ9:32, Ⅰコリ1:23)。

躓きの石
人生を旅路にたとえた時、障害を及ぼす行為や概念を比喩的に表現するのに、この言葉を用いる。旧約では預言者(イザ8:14, 28:7, 57:14, エレ6:21, 18:15)、シンヤクデハパウロの手紙などに(ロマ9:32-33, Ⅰペト2:8)、またイエスの教えの中にも引かれている(マタ13:21, マコ6:3, ヨハ6:61等)。


レビ19:14 耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。
イザ8:14 主は聖所にとっては、つまずきの石/イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩/エルサレムの住民にとっては/仕掛け網となり、罠となられる。
イザ28:7 彼らもまた、ぶどう酒を飲んでよろめき/濃い酒のゆえに迷う。祭司も預言者も濃い酒を飲んでよろめき/ぶどう酒に飲まれてしまう。濃い酒のゆえに迷い/幻を見るとき、よろめき/裁きを下すとき、つまずく。
イザ57:14 主は言われる。盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。わたしの民の道からつまずきとなる物を除け。
エレ6:21 それゆえ、主はこう言われる。「見よ、わたしはこの民につまずきを置く。彼らはそれにつまずく。父も子も共に、隣人も友も皆、滅びる。」
エレ18:15 しかし、わたしの民はわたしを忘れ/むなしいものに香をたいた。彼らは自分たちの道、昔からの道につまずき/整えられていない、不確かな道を歩んだ。
マタ11:6 わたしにつまずかない人は幸いである。
マタ13:21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。
マコ6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
ヨハ6:61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。

ロマ9:32 なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。
ロマ9:33 「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。
Ⅰコリ1:23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
Ⅰペト2:8 また、/「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。

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