2012年1月25日

連載の末尾

「それでは、内容はどんなものか。問題点はないのだろうか。 」

こ、こんなところで終わる原稿があるとは・・・。
1743字語ってきて、これ?

... いくら連載だといっても、これ、不定期連載の欄なんですけど。

山上浩二郎の大学取れたて便 @ 朝日新聞

2012年1月22日

Grade Point Averageのこと

同僚が成績評定の基準化を提案した。
GPA評価が選考に用いられる場合などに配慮して、こういうことも公平性確保のために考慮すべきという考え方のようである。
ここでいう公平性とは、要するに、楽勝科目ばかりでGPAが高いケースと知的にゴリゴリ選び抜いてGPAが低いケース、というような差をなくしましょうということ。
たとえば S:5%以内、S+A:30%以内、BとC:特になし、D+E:30%以内とか。
このパーセンテージ割振自体は、整合的でまともなものに見える。

このことについて、Facebookで書いてみたところ、元同僚が、FD研究会ではこうなっていたよ、というのを教えてくれた。
 S 予想を超えて優れている
 A 優れている
 B 標準的である
 C 最低の水準を満たしている
 F 水準を満たしていない

上記の割振が、まことに整合的でまともであることを、さらに確認する思いである。

しかしながら、感覚的には抵抗を感じる。
「大学は絶対評価ですよ」と言われてきた体験から、ここに相対評価的な原理を持ち込むことに、抵抗があるのだ。

それにね、

ソルフェージュとか、語学の基礎とか、特定の測定方法の実習といったリテラシー科目の場合、教員は、全員が100点をとれるように教育しているんじゃないかと思う。
ある特定の技能について習得できるように、そこではクラスの全員が過不足無く、つまり、「予想を超えて」といった欲が生じないほどまんべんない完璧さをめざして、あらゆる技巧をつかって指導しているんじゃないだろうか。

音大にいたころ、ソルフェージュの基礎クラスで100点をとれる学生の割合は、年度によってもクラス分けによってもまちまちで、30%だったり50%だったり70%だったりした。
こういうリテラシー科目にも、「優れているのは30%以内」などという網をかぶせて大丈夫なのかしら。

これとは、ちょっと別のことなんだけれど、ちょうど愛読するブログ「考えるのが好きだった」で、相対性を求める教育の是非が問われていたので、リンクしておく。
http://blog.goo.ne.jp/kkhrpen/e/e0e8e2d23993f1e5e60ebd0bf60aa2af

2012年1月20日

寝坊した

今朝は寝坊をしてギリギリ出勤だったので、さやかのお弁当やおやつを作れず(涙)、サニーで、かしわご飯とひじきとポテトサラダとソフトロールを買って間に合わせた。
それに、主人のお弁当は、もう半年ばかり作れていない。
こんな生活じゃだめだ。

2012年1月19日

関心と意欲のモラル・バランス

インサイダー取引が禁じられるということ、それは正当なことだけれど、こういうニュースをみるたびに、自分が、インサイダー取引が可能な業種でなくてよかった、という思いを抱く。

要は、関心と意欲のモラル・バランスということだと思うんだけれども、職務上知り得た情報を一般公表前に自分のために活用する、という業務パターンがもし禁止されたら、音楽イベントを企画している人間が音楽ジャーナリズムにたずさわる(そこから原稿料をいただく)、そして書くことで客観化して、あらたな企画の発想を、というような情報と業務の連関は、完全に無理になる。

ミョンフンの海

チョン・ミョンフンのソウルPOを聴いてきた。

曲目が、ドビュッシーの海とマーラーの巨人という組み合わせだったので、「ピアニシモとフォルテシモを聴く会」という先入観で出かけたのだが、「ドビュッシー=ほとんど無」というジャンケレビッチ的言い回しの陥穽にはまってはならぬ! ということを痛感させられた。
くっきりはっきりきっぱりと立体的に造りこまれた響き。
印象派(絵画)か象徴派(文学)かというヤロチニスキの議論以前に、そもそも、《海》の初版表紙に使われたのは、まさに版画(北斎)であって絵画(モネ)ではなかったのだなあ〜。

ベビーシッター制度のおかげで、コンサートは、なんだかんだと月3-4回行けているが、大会に出かけるとかいった学会活動は、かなり休んでしまっている。
復帰の暁には、もらったレジュメをドキュメントフォルダにはさんでビシッと歩きたい・・・とか思うんだけれども、それって要するに、学問への思いより煩悩が先行している状態。

2011年11月28日

新聞における表記

今、毎日新聞(西日本版)で今書かせてもらっている欄は、ベートーヴェン・ラヴェル等の表記が「アリ」だ、の例。
私の知人が「いや雑誌ではそうでも新聞ならびに電報における正統表記はベートーベンとラベルだ!」と強弁をふるっているが、今更、ザ・シンホニーホールとか新日本ヒルハーモニー交響楽団などと書きえまい。
今日の新聞は、字詰めレイアウトが可能になり、「電報の課金システム」的な字数配慮が必要ないのはもちろん、表記法における新聞特権は無視してよいものとなっている。

2011年11月1日

西南学生向け情報

イタリアへの春期語学研修(トリノ大学/2月5日〜3月4日)の募集要綱をもらってきましたのでスキャンしてPDFにしました。参加費用は328,000円。学部ごとに一定の単位が認定されます。関心のある方は是非!!  http://sound.jp/musiclef/class/files.html

2011年10月29日

earthrise2064

kyo ichinose の5th album『earthrise2064』を聴いた。
http://ototoy.jp/feature/index.php/20110122
http://www.amazon.co.jp/dp/B004EHJF42/

楽器音/電子音/具体音を融合させた聴覚表現をする作家。
... 音楽大学で一年先輩だった方というご縁があるので「一ノ瀬響さん」とか「一ノ瀬さん」といった書き方もあり得るのだろうけれど、私の中には「表現者ってものを文字にするときは芸名/フルネームで呼び捨てでしょ」という思い込みがある。この思い込みはかなり強烈で、とくに、ファン界に「名字」+「サン」の呼称を確立しちゃった福山サンや堺サンのような芸能人が半端モンに感じられ、たとえジャニーズ所属でも香取慎吾なる名のほうが、さらには、モーニング娘。出身であっても中澤裕子なる名のほうが立派に感じられるほどである。よって、その作家がペンネームとして小文字のアルファベットという形が選んでいる以上、その表記にならうのがひつぢゃうなのである。

で、kyo ichinose の『earthrise2064』。
蒼いクリスタル調の美しいジャケットデザインに、少し緊張しながら中身を聴いた。
私は「輝くオブジェ」をみると、そこに惹きつけられるものの、近寄ってみると「光の反射」の流れに押し戻されて、その内部に入っていけないのではないか、という不安感におそわれるたちだ。だからギャラリー・モリタでよく展示のある小林健二の作品も、あんなに美しいのに、その光の反射にちょっと苦手意識を覚えたりしがちなのだ。
http://www.g-morita.com/html/movie/crystalelements.html

しかしながら、おそるおそる聴いてみた『earthrise2064』のコンテンツは、私を押し戻さないでくれた。
おさめられた10曲の尺は、1'15 から 9'49 までバラバラで、個別に「この曲は」「あの曲は」といった感想をもつよりも、アルバム全体の通し聴きの中で、耳と背骨と腰椎が少しずつ変わっていくのが楽しめるような、そういう通し聴きのために最大限、時間デザインの配慮がなされているアルバム。かつて同じ作家の1st album「よろこびの機械」を、音楽大学で習ったような芸術音楽の「1曲ごとに完結していく聴き方」と別の次元が開けていくことに大きな喜びを感じながら聴いたのを思い出す。
同じ日に届いたサカナクションの『DocumentaLy』なんかの場合は、まだ1曲買いもありえるアルバム(もちろんシャッフルしちゃ駄目だが)なのに対し、『earthrise2064』のMP3は、単発ダウンロードのオプションは、ナシだと思うよ、Amazon。http://goo.gl/cwNyH

ヴィオラふうの音が聞こえてきて、「うわっ楽器で旋律?」と思いかけた第5曲《Longings and Gravity》では、旋律の残響感をそのままホワイトノイズみたいに重ねていったり、その入り交じった音がいつのまにか消えてヴィオラ1本に戻ったりする肌理の変化が楽しかった。

『よろこびの機械』では、楽器音と電子音の組み合わせが印象的だったけれど、『earthrise2064』では、これら2者に加えて具体音が印象的で、具体音の聴き方については、第2曲《Before the rain》のところで一瞬、自己変革が生じた。木琴の連打と、エレクトーンの和音の満ち引きの中に、女声の呼びかけがあって、楽曲の最後のあたりに、水の流れる音(いやもしかすると全部電子音かもしれないけれど)が入ってくる時、その波の音は、いわゆる「音の意味と外形の両面をそなえて」という状態ではなく、「音の外形」が純粋にカパカパカパとリズムを刻んでくる。

「音と映像の現在形」シンポジウム×上映会

「音と映像の現在形」と題して、下記のとおりシンポジウムおよび上映会を開催いたします。
多数の皆様のご来場をお待ちしております。

* 会場 西南コミュニティーセンター
* 会期 2011年11月6日(日)~7日(月)
* 入場無料/申込不要
* シンポジウム 7日(月) 13:00-15:00
  o 韓成南氏(映像作家・記号学研究)
    http://www.jonart.net/
  o 中村滋延氏(作曲家・メディアアーティスト)
    http://www.design.kyushu-u.ac.jp/~sn/
  o パップ・ジリア(アニメーション研究)
    http://www.waseda.jp/rps/irp/voice/2.html
  o [司会] 栗原詩子(音楽学・映像学)
* 映像上映 6日 12:00-17:00  7日 10:00-16:00
  o 韓成南・中村滋延・黒岩俊哉・早川貴泰・高山穣・松山豊・古田伸彦・森内暢・青
木一生 他
[主催]西南学院大学国際文化学部
 [後援]日本映像学会西部支部
 [問合]栗原詩子(utako@seinan-gu.ac.jp/092-823-4424)

2011年10月27日

大学院設置基準の変更?

修士号に修士論文を必須としない方向性を文科省が打ち出したという。
学問の多様化する今日、おそらく、専攻分野によっては、修士論文のようなサイズでの学術到達度チェックが、文字通り「無駄」「邪魔」になる分野もあるのだろう。
 
しかし、こうした方向転換を説明するにあたって、よりにもよって「産業界からの指摘」というようなことを文字化する“感性"に疑問を覚える。
論文を書いてきた大学院生が「使いにくい」なら、その産業はその人材を採用しなければよろしいのであって、そういう愚痴を、学位制度の変更の理由にしてはならない。
こういうことを書くのは、日経記者の感性なのか、文科省職員の感性なのか?
http://www.nikkei.com/news/latest/article/g=96958A9C93819695E0E4E2E6EB8DE0E4E3E2E0E2E3E39180EAE2E2E2