2012年2月27日

毎日1月号:ミョンフンのこととオルガンのこと

手元のメモ

Debussy
  • 拍子感明瞭で弦のdivigeさえも分離
  • やろうとしていることが伝わってくる
  • 音の粒が明瞭でppらしくない。版画が擦りきれる前はこうなのか、ぐらいの。
  • 第1部ラストのTimpaniによる盛り上げの迫力
  • 絵画的というにはほど遠い版画/造形/立体的な表現
  • 北斎の富嶽百景 → 富士山と波としぶきが各パーツとして分離 → 版画の彫り
  • この演奏を聴くと、当時ジャポニズムが流行していたから表紙に貼った、ということ以上に、北斎への近さを感じる。版画史における北斎の位置を知っていたら、もっと何か言えそうなのだが。
  • ミョンフンは冷めたN響でも燃えさせる
Mahler
  • 1楽章と3楽章の不吉感がすごい
  • 4楽章  キビキビと向きを変えて、両手をビシリと開く様子は、まるで十字架
  • 4楽章  向かい合う2組のティンパニの掛け合いがすばらしい
  • 4楽章  金管の空間的方向性を強調するように、Soliとして立たせる
アンコールは、Brahmsハンガリー1番。大編成を生かしたしっとりと大人で豊かな演奏。

    2012年2月21日

    F.X.ロト指揮のマーラー

    昨晩は、F.X.ロト指揮の南西ドイツ放送交響楽団を聴いてきた。

    マーラー5番は、なんの見栄もきらずに、スラスラ・サクサク・トットコと前に進んでいった。
    これまで聴いたマーラーは、フレーズ間にテンポ変化があったりとか、いろんな見せ場にみちたもので、だからこそ、ウィーンは文化のるつぼです、耳の記憶な んです、路上の石ころがプリズムになるんです、という読書との連動があったりしたが、今回のは「え”っえ”っもう次?」と戸惑いの連続。

    客観的に距離をおいて達観すればミニマルな快感がおとずれるのではないか、というアイディアが浮かんだので、第3楽章の半ばで割り切り方向にシフトチェンジしてみたけれど、期待通りにはならなかった。

    ロトさんって老けたお顔のわりに若くて(1971生)、指揮界でいったら「超若手」であるだけに、なんというかこうハイパーなスキゾなかんじが売りなのかもしれな...い。
    すでに時代は、楽章ごとの位置づけを純交響曲的に明晰にうちだす、ってなことをマーラーでやってみせる段階まできてしまっているのかもしれなくて、そうい う最新スタイルの演奏についていけないことの露呈は、イコール、自分の日頃の鍛錬不足を暴露するにすぎないので、なんとしてでも満足ポイントをみつけたい ところではあり、よって、涼しげに「とても爽やかな演素」とでも語っておく・・・・・・のは簡単。ついていけない私の本音は・・・・・・演奏は決して乱暴なものだったわけではないのだが、なんというか、ユダヤにもウィーンにも形式的特殊性にも目をくれない態度のなかに、「そんなの関係ねえ」的な非紳士性を感じた。

    けちってA席(ぴあで3階2列)にしたのが悪かったのかなあ。

    2012年2月4日

    現実の直視と「みんな」

    大崎茂生の『文化としてのシンフォニー』1巻
    92 なぜハイドンは歴史に遺り、モルターや、ポコルニーや、ロセッティは、なぜ忘却の彼方に消えたのか
    94 シンフォニーが定着する条件とは要するに何かと考えてみると、宮廷にしろ市民レヴェルにしろ、その前提となるコンサート生活が定着しているかどうかが第一であった。

    ところで、
    幼児の悪戯や中学生の悪癖をとめるにあたり「みんなやってるし・・・」という言説は、ビシッと否定して、現実にもどしてやらなければならないが、

    ヨーロッパ留学組の人々が日本のクラシック不振を嘆く際に口にする「ヨーロッパの大人はみんなクラシックのコンサートにでかける」における「みんな」も、かなり怪しいかもしれない。

    人の習性は個々に異なって当然であるし、まさに自分の「やりたいこと」が盛んな都市を選んで留学してきた人が、その都市をガバッと含むヨーロッパ全体を一色に論じるにあたって、自分の「やりたいこと」に染まった色眼鏡がかかっている可能性は、大である。

    2012年1月29日

    やりたいこと

    久木元真吾の論文「“やりたいこと”という論理--フリーターの語りとその意図せざる帰結」を読んだ。
    フリーターという概念があるからそこに居場所をみつける、という状況がありうることもふまえた上で、別の側面から「意識」をさぐるために、97人分約500ページのヒアリング記録(日本労働研究機構の調査研究報告書136:フリーターの意識と実態)を分析したもの。

    以下3点を抽出した上で
    • やりたいことかどうかが、仕事を続ける前提である
    • やりたいことは、今わからなくてもいい。という前提がある
    • やりたいことは、自分のプロセスにでなく自分の外部に実在する、という前提がある
    その帰結として、
    • 良いフリーターと悪いフリーターという上下観がある
    • やりたいことを見つけるプロセスからリタイアしにくい
    などの現状があること、そこには、そもそも、「やりたいこと」でなければ到底続けられなそうだと感じるほどの労働条件の悪化も背景であることなどが、淡々と書かれている。

    そう、たしかに
    「やりたいこと」の奨励と、それを外部的に「こたえる」ことの要請は、今、強すぎる。
    なにしろ朝っぱらの8時から、アンパンマンのマーチがこんなふうに流れる。

     1番          2番
     なんのために生まれて  なにが君のしあわせ?
     なにをして生きるのか  なにをしてよろこぶ?
     こたえられないなんて  わからないままおわる
     そんなのはいやだ!   そんなのはいやだ!

    生の肯定や、自由の肯定の方向性が、強すぎてふりきれちゃっている。
    こたえられなくても、なにかをして生きていれば、よろこべたり、しあわせだったりするかもしれないのに。

    2012年1月27日

    ミョンフン

    チョン・ミョンフンについて新聞に書くにあたり、2回目以降の呼称法を「ミョンフン」にするつもりが「チョン」と表記することになったが、なんだかすごく違和感があった。口語でミョンフンと呼ぶのはキョンファやセフンがいることもあってだろうが、しかし文字上でも、「尾形」「葛飾」「ダ・ヴィンチ」でなく、「光琳」「北斎」「レオナルド」と書くのがふつうだ。
    こういう感覚は、「境さん」「福山さん」なる呼称法に納得のいかない自分と、どう同居するんだろうか。

    2012年1月25日

    連載の末尾

    「それでは、内容はどんなものか。問題点はないのだろうか。 」

    こ、こんなところで終わる原稿があるとは・・・。
    1743字語ってきて、これ?

    ... いくら連載だといっても、これ、不定期連載の欄なんですけど。

    山上浩二郎の大学取れたて便 @ 朝日新聞

    2012年1月22日

    Grade Point Averageのこと

    同僚が成績評定の基準化を提案した。
    GPA評価が選考に用いられる場合などに配慮して、こういうことも公平性確保のために考慮すべきという考え方のようである。
    ここでいう公平性とは、要するに、楽勝科目ばかりでGPAが高いケースと知的にゴリゴリ選び抜いてGPAが低いケース、というような差をなくしましょうということ。
    たとえば S:5%以内、S+A:30%以内、BとC:特になし、D+E:30%以内とか。
    このパーセンテージ割振自体は、整合的でまともなものに見える。

    このことについて、Facebookで書いてみたところ、元同僚が、FD研究会ではこうなっていたよ、というのを教えてくれた。
     S 予想を超えて優れている
     A 優れている
     B 標準的である
     C 最低の水準を満たしている
     F 水準を満たしていない

    上記の割振が、まことに整合的でまともであることを、さらに確認する思いである。

    しかしながら、感覚的には抵抗を感じる。
    「大学は絶対評価ですよ」と言われてきた体験から、ここに相対評価的な原理を持ち込むことに、抵抗があるのだ。

    それにね、

    ソルフェージュとか、語学の基礎とか、特定の測定方法の実習といったリテラシー科目の場合、教員は、全員が100点をとれるように教育しているんじゃないかと思う。
    ある特定の技能について習得できるように、そこではクラスの全員が過不足無く、つまり、「予想を超えて」といった欲が生じないほどまんべんない完璧さをめざして、あらゆる技巧をつかって指導しているんじゃないだろうか。

    音大にいたころ、ソルフェージュの基礎クラスで100点をとれる学生の割合は、年度によってもクラス分けによってもまちまちで、30%だったり50%だったり70%だったりした。
    こういうリテラシー科目にも、「優れているのは30%以内」などという網をかぶせて大丈夫なのかしら。

    これとは、ちょっと別のことなんだけれど、ちょうど愛読するブログ「考えるのが好きだった」で、相対性を求める教育の是非が問われていたので、リンクしておく。
    http://blog.goo.ne.jp/kkhrpen/e/e0e8e2d23993f1e5e60ebd0bf60aa2af

    2012年1月20日

    寝坊した

    今朝は寝坊をしてギリギリ出勤だったので、さやかのお弁当やおやつを作れず(涙)、サニーで、かしわご飯とひじきとポテトサラダとソフトロールを買って間に合わせた。
    それに、主人のお弁当は、もう半年ばかり作れていない。
    こんな生活じゃだめだ。

    2012年1月19日

    関心と意欲のモラル・バランス

    インサイダー取引が禁じられるということ、それは正当なことだけれど、こういうニュースをみるたびに、自分が、インサイダー取引が可能な業種でなくてよかった、という思いを抱く。

    要は、関心と意欲のモラル・バランスということだと思うんだけれども、職務上知り得た情報を一般公表前に自分のために活用する、という業務パターンがもし禁止されたら、音楽イベントを企画している人間が音楽ジャーナリズムにたずさわる(そこから原稿料をいただく)、そして書くことで客観化して、あらたな企画の発想を、というような情報と業務の連関は、完全に無理になる。

    ミョンフンの海

    チョン・ミョンフンのソウルPOを聴いてきた。

    曲目が、ドビュッシーの海とマーラーの巨人という組み合わせだったので、「ピアニシモとフォルテシモを聴く会」という先入観で出かけたのだが、「ドビュッシー=ほとんど無」というジャンケレビッチ的言い回しの陥穽にはまってはならぬ! ということを痛感させられた。
    くっきりはっきりきっぱりと立体的に造りこまれた響き。
    印象派(絵画)か象徴派(文学)かというヤロチニスキの議論以前に、そもそも、《海》の初版表紙に使われたのは、まさに版画(北斎)であって絵画(モネ)ではなかったのだなあ〜。

    ベビーシッター制度のおかげで、コンサートは、なんだかんだと月3-4回行けているが、大会に出かけるとかいった学会活動は、かなり休んでしまっている。
    復帰の暁には、もらったレジュメをドキュメントフォルダにはさんでビシッと歩きたい・・・とか思うんだけれども、それって要するに、学問への思いより煩悩が先行している状態。