2010年6月6日

ヴィジョンの崩壊

母が退院して、グループホームに入居。
木の風合いにこだわって建てられた美しいホームで、これからは毎日、専門的なケアを受けて暮らすことができる。お風呂にも毎日入れてもらうことができる。

このことは私にとって、数年来の課題が一区切りを迎えることでもある。

認知症については、介護保険申請で訪れた市役所ではもとより、交通事故で入院した病院でも、果てはメンタルクリニックの医師からさえ、「発症したのは何時ですか?」と尋ねられる。
しかし正直申して、この手のことで発症時期なんてものはわからない。
あの病気は徐々に進行したのだ。

けれど、各兆候のきっかけにはいつも、「ヴィジョンの崩壊」みたいな要素がからんでいたような気がする。

暴力系統がはじまったのは、私が10歳のころだから、そもそもは1983年?
楽譜は読めずとも音楽的要求の高い母は、私がピアノを練習していると、しばしば「ここ弾き直して」と楽譜を指さした。その場所を弾くと、当たり前のことだが、母の思うメロディと私の弾くメロディが異なることが、非常に非常に多かった。
思い通りの場所がみつからないことに苛立ち、「生意気な娘だ!」と怒鳴り・・・・そして嵐のはじまりである。
私は、プラスチックのハンガーが折れるまで、殴られた。
それ以外の場面では母親から愛されている自信があったから、まあいいんだけれど・・・テレビ・ドラマで女優さんが頬をおさえながら「何するの、私、母にも叩かれたことないのよ!」とお決まりの台詞を言う度に「そんな子いるわけないよ〜」と思ってしまった。その感想が「ええですのう」へ変わり、「まともな女の子って親から殴られないみたいねえ」に変わっていったのは、20代も後半にさしかかった頃だった。

人間関係の把握が壊れ始めたのは、ミレニアムのイルミネーションが輝いていた頃である。
山一証券自主廃業のニュースが97年。そんなの自分に関係ないかと思いきや、99年3月には、父が退職金を株ですっちまっていたことが判明。
娘としては、「マンションのローンが完済していないのに、よく株なんか買いこんだものだねえ」と呆れ放題だったが、母にとってみれば老後のヴィジョン崩壊に、ショック甚大だったことと思う。

その後、私が扶養する形で離婚の手続きをとり、福岡に来てもらったのが2003年の秋。
あの頃からは、もう手当たり次第ムチャクチャの連続だった。
初老の女性の夜泣きというものは、赤ちゃんがお腹すいて泣くのとは訳がちがう。
多くの場合にヒステリーを伴っていて、自分と同クラスの身体の人間が暴言狼藉をはたらくのである。これが明け方はじまると、あまりの荒れように、まともな時間に出勤できないこともあった。
2008年度に西南で私の授業を受けた学生さんたちには、何度も休講して本当に迷惑をかけた。2009年度にまともに授業できたのは、結婚して母と別居になったからにほかならぬ。

一般には、指先をどんどん使うことやお化粧などが、認知症をくい止める上で有効であるように言われているが、私の洋服をほとんど全て手作りしてしまう洋裁&手編みの腕前を持ち、美しいデザインの戸塚刺繍で大作をこなし、音楽と読書とお化粧の大好きな人でも、60代で重度の認知症を発症しうる。

しかし思えば、重度化の各段階に、ヴィジョンの崩壊があった。
楽譜のどこに聴いている音楽があるのかわからないとか、老後の生活設計がたたないとか、地名がわからぬ・語尾がわからぬ福岡とか。
つまり、あることが「わからない」から、ほかのことまで「わからなくなる」のである。

福岡は住みやすいと確信して、この土地に連れてきたが、それによって混乱をきたし重度化の最後のひきがねをひいてしまったことを母にわびたい。

3 件のコメント:

  1. 抑制された冷静な分析の裏にどんなご苦労があったか。周囲に認知症を抱える家族が多い現在、「ヴィジョンの崩壊」というたいへん重要なキーワードのひとつをいただいた気がします。なんとか小さな崩壊で食い止めることはできるのでしょうか。人の心はそんなに強くないよということを忘れないようにしたいです。

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  2. ほんとうに、人の心は、強そうでいて、思いがけないときに、ほころんだりしますね。かけがえのないものを失わずに、日々の生活をおくりたいものです。

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  3. あなた御自身が「かけがえのないものを失った」方ではないですか。
    http://blog.livedoor.jp/musiclef/archives/51530971.html
    http://blog.livedoor.jp/musiclef/archives/51549369.html

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