2011年6月9日

破れ鍋のことば

私は九大に居たおかげで、役所向きの「書類づくり」のなんたるかを学べた。
ここ西南では「文章」のなんたるか、をいつも感じさせられる。
そして、学内向けの媒体における文章が、珠玉の輝きをみせるところが、西南のすばらしさだ。
つまり損得抜きの知的鍛錬。

今月の「月報」では、深谷潤先生と和田光昌先生のエッセイがすばらしい。
美しい絵を味わうに、私は模写する以外のすべをもたない。
そして美しい文章や高い認識を味わうには書き写す以外のすべをもたない故、またまたブログがうつしまくりコーナーになるのであるが・・・。

舞鶴幼稚園長を6年間つとめられた深谷先生は、舞鶴幼稚園が、課外授業・預かり保育・給食・通園バスといった、大人向けの「保育サービス」を二の次にしてきた背景にフレーベルの言葉「Komm, lasst uns unsern Kindern leben!(さあ、私たちの子どもらに生きよう!)」があったことに触れ、しかしそれでも社会がもとめてくる様々な変革を前に、「変わらないために変わらなければならない」とも感じていたこの6年間を振り返って、コリントの信徒への手紙(II 4:16)から「日々新しく」という言葉を引く。
だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。(コリントII 4:16)

和田先生の文章は、『ボヴァリー夫人』から「人のことばは破れ鍋のようなもの」という一節を紹介した後、家業のお手伝いをしていた子供時代の手仕事における沈黙にふれてから、以下のようにつづく。

 このとき、わたしのなかには、ことばたちが、決して表に出ることはないまま、うごめいていたような気がします。未分化なままのことばたちで充たされているという快楽があったのです。それが奇妙に充実した時間としてよみがえってきたのでした。
 ことばは、ことばとして外に出る前までは自己肯定感を与えるよすがとなっていたのに、いったん、ことばとして発せられると、こわれた道具になってしまい、ひとを裏切ることしかしない。破れ鍋のことばの無力と、沈黙のなかに満ちている未分明なことばの万能感。このような両極端のあいだを揺れ動きながら、それでもとにかく使わざるを得ないものがことばなのではないでしょうか。教師として、わたしの使っていることばが、破れ鍋ではとたえず反省するとともに、学生の沈黙に出会ったとき、そこに存在の充実を認め、未分明なことばのうごめきを感じとること、そして、いったん外に出てきたことばには、そのあらわれのひび割れ加減に驚かず、むしろ常態であると受け止め、破れ鍋どうしをぶつかりあわせ、きしませることで、かすかながらも沈黙のことばの充実の名残をかぎとれるようにすること、どのような態度が重要なのではと思った次第です。

ある同僚がこういうのを書いていて、ほかの同僚がそれを読む。
こういうのこそがFaculty Developmentである。
これがFaculty Developmentでなくて、なんだろう。

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