2010年4月26日

歎異抄をひらく

高森顕徹「歎異抄をひらく」一万年堂出版、2008。
全360ページがカラーで定価1600円。
現代はそういう(↑)時代なのか! と知らされる書。

信心とは  148〜149ページ
神仏を深く信じて「疑わないこと」と考えている人がほとんどだ。
しかし、疑う余地のまったくないことなら信ずることは不要になる。「夫は男だと信じている」と言う妻はいないだろう。疑いようがないからである。
(中略)
乱気流に突っ込んで激しく機体が振動し、しばしば機長のアナウンスが流れる。「大丈夫です。ご安心下さい」。それでも起きる不安や疑心は、無事着陸したときに消滅する。
「助ける」という約束に対する疑いは、「助かった時」に破れる。「与える」という約束の疑いは、「受け取った時」に無くなるように、摂取不捨の利益(絶対の幸福)を与えるという弥陀の約束(本願)に対する疑いは、「摂取不捨の利益」を私が受け取ったときに晴れるのである。
この弥陀の本願(誓願)に露チリほどの疑いもなくなった心を、「信心」とか「信楽」と聖人はおっしゃるのだ。
弥陀の本願に疑い晴れた心は、決して私たちがおこせる心ではない。この心が私たちにおきるのは、まったく弥陀より賜るからである。
ゆえに「他力の信心」と言われる。「他力」とは「弥陀より頂く」ことをいう。
このような親鸞聖人の信心は、我々が「疑うまい」と努める「信心」とはまったく違い、弥陀の本願に疑い晴れた心を弥陀より賜る、まさに超世希有の「信心」であり、「信楽」とも言われるゆえんである。

他の善も要にあらず・悪をもおそるべからず、の誤解について  157ページ
酔いもさめぬ先になお酒を勧め、毒も消えやらぬにいよいよ毒を勧めんがごとし。「薬あり、毒を好め」と候らんことは、あるべくも候わずとこそ覚え候。(末灯鈔)
では、この節の正意は何か。
「他の善も要にあらず」とは、弥陀の本願を信じ救われた者は、弥陀より賜った念仏で往生決定の大満足を得ているから、「往生のために善をしようという心」は微塵もない、ということである。
難病が特効薬で完治した人は、他に薬を求めようという心がないのと同じだ。他の薬に用事があるのは、全快していないからであろう。
既に救い取られた人に、救われるに必要な善などあろうはずがない。善が欲しいのは、救われていない証である。
(中略)
弥陀の本願を信じ救われれば、疑いなく助からぬ地獄一定の自己と、疑いなく救われる極楽一定の自己が同時に知らされる、不思議ないわゆる二種深信の世界に生かされるから、「悪をもおそるべからず」の告白は当然である。
悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ。


いわんや悪人をや、の誤解について  197〜200ページ
煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば
励めば善ができ念仏ぐらいは称え切れると思っている人だから「自力作善」の善人と聖人はおっしゃる。(中略)諸善も念仏もいずれの行もおよばぬ悪人と見極められて立てられた弥陀の本願を疑っている人だから「疑心の善人」とも言われている。そのような自力におぼれている人は、自己の一切の思慮分別を投げ捨てて弥陀にうちまかせる心がないから、弥陀の本願の対象にはならないのだ。だが弥陀は、そのような邪見におごり自己の悪にも気づかぬ「自力作善」の自惚れ心をも打ち砕き一切をうちまかさせ、浄土へ生まれさせると誓われている。かかる自力作善の善人さえも弥陀は誘引し救いたもうから、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と言われているのである。


人名

釈尊(前463 - 383)
善導(613 - 681)   浄土教
法然(1133 - 1212)  浄土宗(1207解散・1212赦免)
聖覚法印(1167 - 1235)
親鸞(1173 - 1263)  浄土真宗  「教行信証」 息子:善鸞
唯円(1222 - 1289)        「歎異抄」
覚如(1271 - 1351)        「改邪鈔」  息子:存覚
蓮如(1415 - 1499)

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