2009年12月21日

東京湾に原発を音頭

プルサーマル玄海原発3号機の抗議歌。
「安心・安全・放射能」「明るい未来のクリーンな自然エネルギー」と主張する人々は、自分の町で引き受けられるのかい、という内容、
http://www.youtube.com/watch?v=GQxRKlxh5XA

さて、内田樹のブログ発言は、毎度ホダベ!ホダベ!と首肯して愛読してきたが、今回、「及び腰ストラテジー」という文章には、珍しくウニャー!と反対の気持ちになった。

文章全体の趣旨は、政治的判断で最適解をみつけるのは困難な場合が多いので拙速より慎重を選べ、というものだ。

それは、わかる。
静観論は、これまでの、ふらふらした教育改革を例にとるなら賛成だ。

しかし、静観論を語るにあたって普天間基地問題を例にひくのは(=こと普天間基地問題に関してそれを語るのは)、日本国内で沖縄以外の地域に住んでいる人間として、正しい態度だろうか。

日本には、国際的な取引のためにマイナス面を一手にひきうけてきた人々がいる。
解決を急げと「言い立てる」のは「賢いふるまい」でないというが、少なくとも、ああした現実を前に、冷静にエポケーして、その問題は先延ばしにしとけばぁ? と言ってみせるのは、冷たく無神経で卑小なことに感じられる。そういう形での「賢いふるまい」など、つつしんで願い下げる。

家族関係のしがらみでどうにも身動きならない窮状にあっても、「家族からその人が消えるとしがらみはするするとほどけて」解決することがあるという例がひかれていたが、こんな事例と普天間基地問題を、どうやって関連づけるというのか。

2 件のコメント:

  1. 私もこれはウニャー!です。

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  2. ご賛同1票に感謝します。
    「坊主にくけりゃ袈裟まで」ではありませんが、その後、ウニャー度がどんどん増してきました。
    LOHAS言説がこれだけじゃらじゃらある時代に、「いいじゃん、もう、これで」という脱力系の言説だけが存在しない。」とは、いったいどんな現状認識なんでしょうか。
    http://blog.tatsuru.com/2009/12/23_1004.php

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