- 『チョムスキーの「教育論」』, 明石書店, 2006.
- Donald Macedo (ed) + Noam Chomsky, Chomsky on Miseducation, 2000.
チョムスキーがあちこちで発表したエッセイ・講演や、マセードとチョムスキーの対話、といったものを集めた雑集であり、書物の中で発展したり深まったりする印象は受けなかったが、沢山の事例をとおして「民主主義を謳う教育」が、いつも民主主義から逸れて機能していることがわかる。チョムスキーが問題にしているのは米国政府・米国教育だが、人間が間違える道筋って、いつも、こう。
今のニュースとのからみでは、米軍基地は日本の国際的安全実現のためにあるわけではないけれど米軍を追っ払うと米政府が日本を攻撃する国(団体)を支援しそうなかんじが、あの国のいつものやりくちの中にあるんだな、っていうことを感じさせられる本。そういった報復を避ける、イコール「安全保障」というコンセプトで、これまで追っ払えずに来たのではないか。ずるいずるい蓋然的な恐喝。10/30の市田忠義が参照していたフィリピンやエクアドルは、この恐怖をどうやって克服したのだろうか。
今朝のサンデーモーニングで、米オバマ大統領の喋りをバックにしたダイジェスト映像の字幕によれば、オバマ氏は「日米は完全に対等な国家関係だ。普天間基地の問題もふくめて、その関係にふさわしいものに修正されるだろう」といったことを発言したようだ。よくぞ対等と普天間をセットで言及してくれたものだとおもう。演説全文をよみたい。福島瑞穂さんは「突っ込んだ言及はなく、正直、物足りない」と言ったそうだが、「突っ込む」のは、むしろ政権与党の仕事ではないだろうか。相手国がここまで発言したのだから、「対等な国家関係にふさわしくこれこれのことをしてください」と要求してほしい。
- <10>いわゆる「開かれた自由な社会」における学校は、きわめて逆説的緊張関係に直面している。一方で、学校は民主主義の美徳を教える責任を負わされているが、もう一方では、現代の民主主義に内在する偽善性にも加担しているからである。
- <20>米国では、ベトナムでの殺戮作戦が「和平工作 Pacification operation」と名付けられ、パナマ侵攻が「正しい大義の作戦 Operation Just Cause」と名付けられる。
- <34>ボストン・ラテン語学校の12歳の生徒デイビッド・スプリッツラーは「忠誠の誓い」は「愛国心を偽善的に勧めるもので、そこには自由も正義もまったくない」と考えて、この朗唱を拒否したために退学処分を受けそうになった。<35>つまり、高い教育のある教師・校長が生徒に服従(朗唱)を強要し、忠誠の誓いの中身を犠牲にしようとした矛盾は、まさにたえず学校に期待されている事態。学校は、自力でものを考える人を育てるどころか、支配と強制のために機能し、いったん教育を受けると、もはやその権力構造を支えるやり方に慣らされてしまうが、権力構造はその見返りに莫大な報酬を与える。
- <58>オルテガ・イ・ガセット「我々のいわゆる文明が、原始状態と野蛮の復活をもたらすだろう」
- <59>学校が民主主義の神話を生徒に教え込むのをやめることはあり得ないでしょう。というのは、この神話の煽動力を使って、支配的イデオロギーは真の文化的民主主義の発現を抑え込み、現在の文化的経済的主導権(ヘゲモニー)を維持しようとしているからです。
- <68>日々の新聞が明らかにする惨劇に心を奪われるあまり、これがさらなる深い罪の残酷な外面にすぎないという事実を私たちは見落としがちです。すなわち、悲惨さに心を奪われるだけでは、限りない苦痛と屈辱を与え基本的人権を日常的に否定する社会秩序に加担することになるのです。
- <69>米国知識人社会の重要部分が、真理と正義にではなく権力および権力の効果的行使に忠誠を尽くそうとする自然な傾向を持つことなどに対して身を守る手段を、私たちは今こそ生徒に与えなければならないのです。<72>たとえば、米国の学校で、米国によるフィリピン支配を学習し、その現代的意味を読み手にまかせることは可能なはずです。(中略)高校生は「自由貿易から利潤をあげた寡頭政治勢力、独立後は米国人の権利・特権を尊重する寡頭政治勢力を、植民地政策は強化する傾向にあった」こと、そして結局、米国の植民地政策は「大多数の一般フィリピン人に資するものではなく、少数者の利益のためにこの国の経済を米国と結びつけることになった」こと等々も読み取ることになるでしょう。
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