2009年10月13日

進路トークの女性 

今年は、国際文化学部のための授業準備タイムを「本気論文を読む時間にしよう!」のコンセプトで、毎週ごりごりとほぼ1本ずつ、ナマ系の研究文献を読解し、学生にも一緒に読解してもらっている。

学部生には、これはきついそうだが、前期には「ほんとにそのとおり予習したらたいへんなことになりますけれど、こういうのはハマると結構ハマるかんじですよね」(2年生)という器用で喜ばしいコメントも得られた。要するに、こちらは文献を渡しはするが、実際の授業はそのエッセンスをKeynoteで解説するだけだし、授業に出れば全訳ももらえるから、そんなに迷惑でもない、という反応のようだ。

したがって、後期もこの路線でゴー。

学期中にもかかわらず、生活の中に、文献を2科目分とりこめるのはオイシイ。


なにしろ、2004〜2006年に映像学に没頭した後、私は、眼病やら新聞記事やらコンサート運営やら転職やら、なにかと格好の言い訳があって、研究者としてはずいぶん遊びほうけていたように思う。今年は主婦もどき開始という言い訳も加わって、料理もやってみると結構おもしろいものだから、研究者としては相当あぶないわけで、授業の仕込みをしつつ勉強できるというのは、むちゃくちゃにオイシイ。


西南の学生さん、器用に受講してくれて、本当にありがとう。


さて、この暮らしをふりかえってみて、ふと思い出した人がいる。
大妻多摩高校にいた頃、進路トークに現れた卒業生のこと。


色白で、メガネをかけた、その地味なスーツの女性は、言った。

私は、大学で日本近代文学の世界に出会い、それを愛しました。そして、自分の愛する日本近代文学を研究するという幸せな選択をしました。でも高校生の方々に知っておいてほしいのは、研究者の生活というものは、今みなさんがやっている受験勉強とは違うということです。自分で決めた方法で文献を探し、自分で決めた量の読解を進め、その中身によって自分の検証を行い、また引き返して文献を読み、調査することの繰り返しです。偏差値はないので、自分と向かい合うことが最も大事で、その本性を忘れたならば、研究者としては崩れてしまうのです。ですから、私は男性と並んで歩いたことも手をつないだこともございません!

私たち高校生一同は、最後の急カーブにビックリし、そして、突然の「ございません」にビックリし、進路モードは吹っ飛んだ。

−−−今日の人、すごかったよね〜。

−−−ございませんとか言ってたね〜。

−−−結局、ございませんしか覚えてないね〜。

−−−多摩まで来て、それ、相当かわいそうだよね〜。


彼女はその後、男性と手をおつなぎになったであろうか。

1 件のコメント: