2011年11月28日

新聞における表記

今、毎日新聞(西日本版)で今書かせてもらっている欄は、ベートーヴェン・ラヴェル等の表記が「アリ」だ、の例。
私の知人が「いや雑誌ではそうでも新聞ならびに電報における正統表記はベートーベンとラベルだ!」と強弁をふるっているが、今更、ザ・シンホニーホールとか新日本ヒルハーモニー交響楽団などと書きえまい。
今日の新聞は、字詰めレイアウトが可能になり、「電報の課金システム」的な字数配慮が必要ないのはもちろん、表記法における新聞特権は無視してよいものとなっている。

2011年11月1日

西南学生向け情報

イタリアへの春期語学研修(トリノ大学/2月5日〜3月4日)の募集要綱をもらってきましたのでスキャンしてPDFにしました。参加費用は328,000円。学部ごとに一定の単位が認定されます。関心のある方は是非!!  http://sound.jp/musiclef/class/files.html

2011年10月29日

earthrise2064

kyo ichinose の5th album『earthrise2064』を聴いた。
http://ototoy.jp/feature/index.php/20110122
http://www.amazon.co.jp/dp/B004EHJF42/

楽器音/電子音/具体音を融合させた聴覚表現をする作家。
... 音楽大学で一年先輩だった方というご縁があるので「一ノ瀬響さん」とか「一ノ瀬さん」といった書き方もあり得るのだろうけれど、私の中には「表現者ってものを文字にするときは芸名/フルネームで呼び捨てでしょ」という思い込みがある。この思い込みはかなり強烈で、とくに、ファン界に「名字」+「サン」の呼称を確立しちゃった福山サンや堺サンのような芸能人が半端モンに感じられ、たとえジャニーズ所属でも香取慎吾なる名のほうが、さらには、モーニング娘。出身であっても中澤裕子なる名のほうが立派に感じられるほどである。よって、その作家がペンネームとして小文字のアルファベットという形が選んでいる以上、その表記にならうのがひつぢゃうなのである。

で、kyo ichinose の『earthrise2064』。
蒼いクリスタル調の美しいジャケットデザインに、少し緊張しながら中身を聴いた。
私は「輝くオブジェ」をみると、そこに惹きつけられるものの、近寄ってみると「光の反射」の流れに押し戻されて、その内部に入っていけないのではないか、という不安感におそわれるたちだ。だからギャラリー・モリタでよく展示のある小林健二の作品も、あんなに美しいのに、その光の反射にちょっと苦手意識を覚えたりしがちなのだ。
http://www.g-morita.com/html/movie/crystalelements.html

しかしながら、おそるおそる聴いてみた『earthrise2064』のコンテンツは、私を押し戻さないでくれた。
おさめられた10曲の尺は、1'15 から 9'49 までバラバラで、個別に「この曲は」「あの曲は」といった感想をもつよりも、アルバム全体の通し聴きの中で、耳と背骨と腰椎が少しずつ変わっていくのが楽しめるような、そういう通し聴きのために最大限、時間デザインの配慮がなされているアルバム。かつて同じ作家の1st album「よろこびの機械」を、音楽大学で習ったような芸術音楽の「1曲ごとに完結していく聴き方」と別の次元が開けていくことに大きな喜びを感じながら聴いたのを思い出す。
同じ日に届いたサカナクションの『DocumentaLy』なんかの場合は、まだ1曲買いもありえるアルバム(もちろんシャッフルしちゃ駄目だが)なのに対し、『earthrise2064』のMP3は、単発ダウンロードのオプションは、ナシだと思うよ、Amazon。http://goo.gl/cwNyH

ヴィオラふうの音が聞こえてきて、「うわっ楽器で旋律?」と思いかけた第5曲《Longings and Gravity》では、旋律の残響感をそのままホワイトノイズみたいに重ねていったり、その入り交じった音がいつのまにか消えてヴィオラ1本に戻ったりする肌理の変化が楽しかった。

『よろこびの機械』では、楽器音と電子音の組み合わせが印象的だったけれど、『earthrise2064』では、これら2者に加えて具体音が印象的で、具体音の聴き方については、第2曲《Before the rain》のところで一瞬、自己変革が生じた。木琴の連打と、エレクトーンの和音の満ち引きの中に、女声の呼びかけがあって、楽曲の最後のあたりに、水の流れる音(いやもしかすると全部電子音かもしれないけれど)が入ってくる時、その波の音は、いわゆる「音の意味と外形の両面をそなえて」という状態ではなく、「音の外形」が純粋にカパカパカパとリズムを刻んでくる。

「音と映像の現在形」シンポジウム×上映会

「音と映像の現在形」と題して、下記のとおりシンポジウムおよび上映会を開催いたします。
多数の皆様のご来場をお待ちしております。

* 会場 西南コミュニティーセンター
* 会期 2011年11月6日(日)~7日(月)
* 入場無料/申込不要
* シンポジウム 7日(月) 13:00-15:00
  o 韓成南氏(映像作家・記号学研究)
    http://www.jonart.net/
  o 中村滋延氏(作曲家・メディアアーティスト)
    http://www.design.kyushu-u.ac.jp/~sn/
  o パップ・ジリア(アニメーション研究)
    http://www.waseda.jp/rps/irp/voice/2.html
  o [司会] 栗原詩子(音楽学・映像学)
* 映像上映 6日 12:00-17:00  7日 10:00-16:00
  o 韓成南・中村滋延・黒岩俊哉・早川貴泰・高山穣・松山豊・古田伸彦・森内暢・青
木一生 他
[主催]西南学院大学国際文化学部
 [後援]日本映像学会西部支部
 [問合]栗原詩子(utako@seinan-gu.ac.jp/092-823-4424)

2011年10月27日

大学院設置基準の変更?

修士号に修士論文を必須としない方向性を文科省が打ち出したという。
学問の多様化する今日、おそらく、専攻分野によっては、修士論文のようなサイズでの学術到達度チェックが、文字通り「無駄」「邪魔」になる分野もあるのだろう。
 
しかし、こうした方向転換を説明するにあたって、よりにもよって「産業界からの指摘」というようなことを文字化する“感性"に疑問を覚える。
論文を書いてきた大学院生が「使いにくい」なら、その産業はその人材を採用しなければよろしいのであって、そういう愚痴を、学位制度の変更の理由にしてはならない。
こういうことを書くのは、日経記者の感性なのか、文科省職員の感性なのか?
http://www.nikkei.com/news/latest/article/g=96958A9C93819695E0E4E2E6EB8DE0E4E3E2E0E2E3E39180EAE2E2E2

2011年10月23日

お出かけクラシック(毎日10月22日夕刊)

せっかくブログお持ちなんですからどんどん掲載しちゃって下さい、と記者から言っていただいたので、今月分をコピペ。

2009年にデュトワの「兵士の物語」で実施された第1回以来、旬の演奏者と魅力的なプログラム内容を低価格で提供している「アクロス・アフタヌーンコンサート」のシリーズ。筆者はウィークデーの14時からという開催枠に地団駄ふんできた1人だが、今回はいくつかの偶然が重なって、ブリュッセル出身の精鋭「ダネル弦楽四重奏団」の演奏を聴くことができた(10月11日・アクロス福岡シンフォニーホール)。
クラシックの演奏会では、開始1本目の演奏がベタリと平板に響くことが、よく起こる。客席空白のリハーサル時と満場の本番とでは、ホールの残響が大きく変化し、ステージ上の演奏者は本番で、自らの「音」を異質なものとして意識してしまいがちだ。しかも、そこに集まった聴衆の息づかいが、音楽の傾聴へと収斂していく前に「音」が発されると、その異質性は一層増してしまう。演奏前に、マイクを通して「日本の皆さん」への挨拶トークをしてくれたけれど、ああした観客サービスもまた、演奏の勘を狂わせたかもしれない。
序盤のヴァインベルク「アリア」では、そんな残念な思いを抱かせたものの、シューベルト「ロザムンデ」の第2楽章、そして休憩をはさんでのラヴェルは、文字通り見事な演奏だった。雲母の切片を思わせるマルク・ダネル(第1バイオリン)の繊細な音の粒を、丸みのあるギー・ダネル(チェロ)のバスが支える。
付記するならば、この充実した聴体験は、弦楽四重奏以外の楽器を交えない洗練されたプログラミング(選曲)にも支えられていた。これがもし、地元のピアノや木管などの演奏家と組み合わせ五重奏の曲目を交えることで、「聴きやすく」「集客のよい」企画であったら、同質の楽器ばかりで編成された弦楽四重奏そのものの「音」の明暗は、これほど伝わってこなかっただろう。
九響第311回定期(9月29日)は、デュリュフレ(1902-1986)の「レクイエム」。オルガン伴奏版、弦楽合奏伴奏版、管弦楽伴奏版など、いくつかの楽譜が刊行されているが、今回はハープ、チェレスタ、オルガン、タムタムなど多様な楽器を配した、もっとも贅沢なバージョンでの演奏が、秋山和慶の指揮で実現した。八木寿子(メゾ・ソプラノ)は、ピアニッシモからフォルテまで、どのダイナミクス(音量)でも、低音から高音まで、どの音域でも、滑らかで豊かな響きを聴かせてくれた。
また、九響合唱団による第7曲ルクス・エテルナ(永遠の光)の加算リズム的な朗唱は、鈴木隆太(オルガン)の繊細な音運びも相俟って、同時代のメシアン(1908-1992)の音楽語法を思わせる演奏となった。歌詞の上で、ディエス・イレ(怒りの日)の代わりにリベラ・メ(私を赦したまえ)が焦点化されている共通点はあるが、一世代前のフォーレ(1845-1922)の若書きの「レクイエム」と比較することは、もはや不要に思える。

お薦め演奏会
◆バレエフェスティバル2011 10月30日13時、アクロス福岡シンフォニーホール。
オーケストラの仕組みを、踊り(振付:中島伸欣ほか)と九響の演奏で、わかりやすく表現する。曲はブリテン「青少年のための管弦楽入門」。
◆ユリアンナ・アヴデーエワ(ピアノ)リサイタル 11月1日19時、アルカスSASEBO中ホール▽11月3日14時、鹿児島県立みやまコンセール。1985年生まれ、昨年の第16回ショパン国際コンクール(ショパン生誕200年)の優勝者。輝くリズムと躍動感は1965年の優勝者アルゲリッチの優勝当時の演奏を想起させる。曲目はプロコフィエフ「ソナタ2番」、リスト「悲しみのゴンドラ」など。

2011年10月13日

感想(9月29日の九響定演)

どうみても「フランス三昧」という趣旨のプログラミングだったが、タイトルはなぜか「オラトリオの世界」。
ラヴェル/バレエ組曲「マ・メール・ロワ」
デュリュフレ/レクイエム 作品9
ショーソン/交響曲 変ロ長調 作品20

なんでこういうタイトルになるのかを勝手に推測して解説しますと、デュリュフレのとても綺麗なレクイエムをやろうと思ったら、なんか楽器編成が派手になっちゃって、いっそのことハープとか使う曲目をいろいろつっこんじゃえ、という選曲プロセスだったので、編成には力入れたしお金もかけました、ということが「オラトリオ」という単語に表現されているのデス。

このタイトルの下にくっついていた惹き句は、タイトルよりも更にパワフルであった。
「フォーレの名作に匹敵するデュリュフレ「レクイエム」の天国への昇華」
これはなに?
演奏会の魅力を伝えたがっているようには到底思えない。

指揮は秋山和慶。
マメールロワはベタッとしているように思えたが、レクイエムは聴き所満載。
まず声量豊かな八木寿子(Mezzo Sop.)の張りのある高音とドラマティックな低音の轟きに圧倒された。八木さんの名前をインターネットで検索したら、高本秀行さんが激賛していて、その言葉のひとつひとつに「うんうんそうだろうそうだろう」と納得した。http://blog.goo.ne.jp/piano_music/e/55501fc4842706efa0ca79bd356dd1c2
また第7曲のLux aeternaにはハッとさせられた。
この日は、とてもメシアンぽく聞こえた、というか、それは、朗唱重視で加算リズム的になっていることもあるし、鈴木隆太(Org.)の音運びがとても繊細で美しかったこともあるんだろうけれど、少なくとも、こんなに斬新で面白い表現を、フォーレの若書きのレクイエムにたとえるのはもはや不要なことだと実感した。
鈴木隆太は昨年サン=サーンスの第3番でも九響と共演した方で、この公演を聞き逃したのが、今さらながら惜しくなった。
http://orchestra.musicinfo.co.jp/~kyukyo/kyukyoFiles/profile/2010solist.profile/10ryuta_suzuki.html

休憩をはさんでショーソン。
霧島で聴いたヴァイオリン協奏曲(編成はVn, Pf, SQ)の好印象もあって、とても期待していたのだけれど、なんだかうまくはまれなかった。
ウォーウォーウォーと唸る旋律には、時折ワーグナーの序曲ものが感じられ、その合間合間に「ぞうさん」の輪郭が乱入してくる。ここでの「ぞうさん」はシャミナードのフルート協奏曲よりも強烈かつ明瞭な「ぞうさん」である。
プログラムノートで、奥田佳道さんが「19世紀のフランスで紡がれた交響曲芸術の逸品にも関わらず演奏の機会に恵まれない」と書いていたが、どういうところに逸性をお感じなのだろう。読みたかったな。

2011年10月9日

様子をみる、について

金曜はさやかがグッタリして、わたしは命の縮む思いをした。
40度の熱が出ていても、キトキト笑ってグイグイ食欲を発揮するタイプの子が、おもちゃを抱えて一日ゴロンとしているのを目にするのは、たまらないものだ。

予防接種をしていないだけに「もしや日本脳炎か?」などと、いろいろな思いがうかび、授業2つと面談1つと面接試験1つを全て投げ出して、精密検査のできる大病院に連れて行こうか、と慌てふためいた・・・・が結局、投げ出すことができずに、研究室でシッターさんに看てもらい、夕方、ホームドクターに診せて、再処方を頼んだ。

ああ、あの選択には自信がない。
今回は大事に至らなかったからよかったものの、母親として、投げ出さなかったことを悔やむ気持ちもある。

今回は、鼻風邪のために木曜に処方してもらった水薬のうち、シプロヘプタジン塩酸の割合が、さやかには多すぎたために、ボーッとしていた。
そんな気がしたから、金曜のお昼は投薬をお休みしつつ、夕方まで、いわば「様子をみて」いたのだが、この「様子をみる」という行為は、基本的に「片時も離れずに」行いたいものであって、95分(授業1コ分)離れたり、40分(面接試験)離れたりしながら、「様子をみる」のは、さやかに申し訳ない。

2011年9月17日

リバーマンによるThe EyeWriterプロジェクト

メディアアーティストのリバーマン氏が再来日。
2年前講演通訳させていただいた時、たまたま4つ授業をこなした直後の通訳役だったので、私の頭が疲れちゃっていて、meditationを訳せないというドボンをやらかしたのだけれど、 彼のつくるインターフェイスは本当に面白かった。
「図と地」の原理を最大限に生かしたプログラミングの発想で、光に影絵ポーズの手をかざすと、手のフォルムをモニタ上でコロンコロンと転がる映像オブジェクトにしてくれて、それがリズムにのって動き出す・・・


感性融合デザインセンター ワークショップ・講演会
「ザッカリー・リバーマンによるThe EyeWriterプロジェクト in 福岡」

世界的なメディア・アーティスト、ザッカリー・リバーマン氏を招いてのトーク&ワークショップ!2010年に世界最大のメディア・アートの祭典、アルス・エレクトロニカでゴールデンニカを受賞した「The EyeWriter」プロジェクトに関す
る、ザッカリー氏によるトークとワークショップを開催します。
「The EyeWriter」は、筋萎縮性側索硬化症(ALS)により全身が麻痺してしまったグラフィティ・アーティストに「再びグラフィティを描けるように」という願いから始まったプロジェクト。
講演では「The EyeWriter」プロジェクトを中心としたザッカリー氏の活動についてのトークが行われます。また、ワークショップでは実際に「The EyeWriter」の仕組みがレクチャーされ、「The
EyeWriter」のデバイスを応用したアプリケーションを作ります。

講演会:
10/3(月) 19:00~21:00
-九州大学 大橋サテライト ルネット

ワークショップ:
10/2(日) 12:00~18:00
-九州大学 芸術工学府 大橋キャンパス 7号館1F ワークショップルーム

10/3(月) 12:00~18:00
-九州大学 大橋サテライト ルネット

講師:
ザッカリー・リバーマン

参加条件:
講演会,ワークショップともに入場無料
ワークショップは事前申込が必要。両日とも参加可能な方で,かつプログラミングの経験があることが望ましい。なお,ノートPCを持参していただくことになります。
ワークショップの見学は自由ですが,部屋に入る人数の関係上,ご遠慮願うことがあるかも知れません。
講演会は事前申込の必要なく,自由に参加いただけます。


主催: 九州大学大学院感性融合デザインセンター

共催: 九州大学大学院統合新領域学府ユーザー感性学専攻

企画・運営: 藤岡 定 + anno lab.

WEB: http://www.anno-lab.com/event/tewfukuoka/

facebookイベントページ: http://www.facebook.com/event.php?eid=202269459838407
twitterハッシュタグ: #tewfukuoka

2011年9月16日

ためすぎショッピングカート

2011年9月14日

西南 秋の講座

魅力的な講演会がいっぱい。
2〜4は夕方なので無理だけど、1は15:10〜16:40。 

1.読書教養講座 9/28町田康「内面の作成」
http://katsuji.yomiuri.co.jp/kyouyo/

2.2011年度後期リカレント講座「楽しい英語読書入門」
http://www.seinan-gu.ac.jp/community_connect/lifelong_learning/recurrent.html

3.今、世界の経済は
http://www.seinan-gu.ac.jp/community_connect/lifelong_learning/lecture.html

4.東日本大震災がもたらした課題-大規模災害対応への基礎力-
http://www.seinan-gu.ac.jp/community_connect/lifelong_learning/lecture.html

2011年9月12日

9月27日 檜垣智也さんのアクースモニウム・リサイタル

檜垣智也さんのリサイタル(9月27日/アクロス福岡1F円形ホール)の案内をいただいた。

檜垣さんは、愛知県芸で作曲を学んだ後、パリで「アクースモニウム」を修業して、この新しい音響芸術の世界を、創作・上演の両面から紹介しているサウンド・アーティスト。
私はJ.-Y.ボスールの『現代音楽を読み解く88のキーワード』を翻訳する際、「アクースモニウム」の項目はもちろん「電子音響音楽」の項目も、ずいぶん助けていただいた。

... 「アクースモニウム」は、ホール内に16個以上のスピーカーを縦横に配置して、録音作品の上演中にどんどんミキサー卓を操作し、個々のスピーカーの個性を際立たせながら、様々な大きさ・距離・方向から「音響スクリーン」を形成する芸術。ミキサー卓の操作次第で、ニュアンスやコントラスト、立体感や動きが生まれるという、いわばスピーカー群によるオーケストラ。この喩えでいくと、ミキサー卓に座る人は、いわば指揮者にあたると思うんだけれども、この領域に通じたフランソワ・ベルなんかは、アクースモニウム自体を「聴感を演出する楽器群」と表現しているほどなので、彼のイメージの中で「アクースマット」は指揮者というよりスピーカーを鳴らす演奏者という位置づけなのかもしれない。響きの出来事を視覚的に提示するソフトウェアとして「アクースモグラフ」も開発されていて、仏独では、かなり定着しているらしい。

9月27日には以下5作品が上演される。
・檜垣智也『Incorporeal』
・今史朗『生命の水』
・中村滋延『Passion』
・パルメジャーニ『La Roue Ferris』
・デュフール『変態』

残念なのは、私には、まだこの「アクースモニウム」という領域について、耳でアプローチし、上演の有様を記述したりする力がないこと。その力があったら、いろいろな場面で書きたいのだが・・・

いわゆる伝統的なクラシック音楽に関しては、聴音・視唱の訓練15年を経て、くり返し再生可能なCD評からスタートし、それを5〜6年も続けてから、ようやく演奏会評にとりかかるにいたった。その演奏会評だって、事前にNaxos Music Libraryで曲目をゴリゴリ予習してから臨んでいる。
しかしアクースモニウムの場合、上演される曲目はほとんど初聴の曲ばかり。
独仏ではかなりメジャーなアート領域だというけれど、日本に暮らしているかぎり、耳を鍛える方法も、言語化された評がどんな聴き所をたよりにしているのかも、心許ない。

とはいえ、今は地道に、トレーニングするのみ。
事前に入手できる曲が2つほどあって、私の恩師で元上司の中村滋延先生の『Passion』は聴くチャンスあるし、パルメジャーニの『La Roue Ferris』についてもiTunesに載っかっているのをみつけたぜい。
http://itunes.apple.com/jp/album/la-roue-ferris/id315769301?i=315769397&ign-mpt=uo%3D4

9月25日 宮崎由紀子さんのチャリティークラシックコンサート

ピアニストの宮崎由紀子さんが、八幡の「プレリュード」(http://www1.bbiq.jp/prelude/)で9月25日にチャリティーコンサート。
ショパンの夜想曲3曲や、エドゥアルド・ヴォルフの「マズルカ形式によるノクターン」などが演奏されるのだが、このあたりは、去る1月8日に松本直美さんの講演会で宮崎さんに弾いていただいた作品。

自分の関わらせてもらった企画の中身が、こうして別の形で広がっていくのは、とても嬉しい。

10月8日 西南学院大学オルガンコンサート

秋の西南学院大学オルガンコンサートは、廣江理枝氏(東京藝術大学准教授)をお招きします。
是非、お誘い合わせの上、ご来場ください。



...   日 時:2011(平成23)年10月8日(土)
開 場:15:30 / 開 演:16:00
会 場:大学チャペル
入場料:無料

【曲 目】「神はわがとりで」     BWV 720 J.S.バッハ
協奏曲ニ短調       BWV 596 J.S.バッハ
前奏曲とフーガ 変ホ長調 BWV 552 J.S.バッハ 他

会場で社会福祉施設等への自由募金を行います。

2011年8月5日

(科目用映像)メシアン『嬰児イエスに注ぐ20の眼差し』

楽譜付 → Pierre-Laurent Aimard(1957- )

1.神のまなざし Regard du Père
2.星のまなざし Regard de I'etoile
3.交換 L'echange

4.聖母マリアのまなざし Regard de la Vierge

5.御子をみつめる御子のまなざし Regard du Fils sur le Fils

6.それによりて全ては為されたり Par lui tout a été fait

7.十字架のまなざし  Regards de la Croix
8.高きみ空のまなざし Regard des hauteurs
9.時のまなざし Regard du temps
10.悦びの精霊のまなざし Regard de l'Esprit de joie

11.聖母の初聖体拝受 Première communion de la Vierge 12.全能のことば La parole toute-puissante

13.降誕祭 Noël  14.天使たちのまなざし Regard des anges
15.嬰児イエスのくちづけ Le baiser de l'enfant-Jésus

16.予言者たちと羊飼いたちと博士たちのまなざし Regard des prophètes, des bergers et des mages

17.沈黙のまなざし Regard du silence
 
18.恐るべき「み言葉の力」のまなざし Regard de l'onction terrible
 
19.私は眠っているが,私の魂はめざめている Je dors, mais mon cœur veille

20.愛の教会のまなざし Regard de l'église d'amour

(科目用映像)メシアン『世の終わりのための四重奏曲』

1 Liturgie de cristal
2 Vocalise, pour l'Ange qui annonce la fin du Temps

3 Abîme des oiseaux

4 Intermède

5 Louange à l'Éternité de Jésus

6 Danse de la fureur, pour les sept trompettes

7 Fouillis d'arcs-en-ciel, pour l'Ange qui annonce la fin du Temps

8 Louange à l'Immortalité de Jésus

(科目用)疾走する三人の映像作

記事 : 「疾走する三人の映像作家が自作を語る----スパイク・ジョーンズ/クリス・カニンガム/ミシェル・ゴンドリー」広告批評 (276), 138-144, 2003-11


スパイク・ジョーンズ
Sonic Youth - 100%
Beastie Boys - Sabotage

Wax - California

Björk  - It's, Oh, So Quiet

Björk - Hyperballad (by Michel Gondry)

Daft Punk - Da Funk

FatLip - What's Up Fat Lip?


クリス・カニンガム
Aphex Twin - Come to Daddy

Autechre - Second Bad Vilbel

Madonna - Frozen

Aphex Twin - Windowlicker
 Björk - All is full of love

Aphex Twin - Flex

ミシェル・ゴンドリー
Björk - Human Behaviour

Hedgehog in the Fog [Yuriy Norshteyn, 1975]

The Chemical Brothers - Let Forever Be

The White Stripes - Fell in Love with a Girl

Steriogram - Walkie Talkie Man(記事外)

The Vines - Winning Days

Kanye West - Heard 'Em Say

2011年7月6日

手足口病

さやかのお尻が真っ赤(涙)。
病院では例によって予防接種歴を書かされ、さやかにはまだ何も接種させていない故、医師から15分以上、手足口病の診療そっちのけで「予防接種歴無しなんて何考えているか理解できない。あなたこの子が死んでもいいんですか?」と極端なボキャブラリーで面罵される。

自分は小学校時代、インフルエンザ予防接種の集団注射のたびに毎度毎度翌日から高熱と嘔吐に苦しんだが、当時は「あなた集団感染の発生源になってもいいんですか?」という詰め寄りの風潮が強かったので、毎年「この後苦しい思いするのだなあ」と思いつつも諦めて注射を受けたのだ、このような体験をへて、自分と体質が似ているはずの我が子にそうそう簡単に予防接種など受けさせられようか、ワクチンの適性は個人差がある、つい数ヶ月前にもヒブワクチンと肺炎球菌ワクチンで死者が出たではないか・・・と反論し、だまってもらった。


ともあれ、少なくとも手足口病に予防接種はないのであって、目の前の手足口病患者の治療を優先させてほしいものである。

またこの医師からは塗用・飲用の2種類の抗生剤を処方されたが、帰宅して調べてみると、国立感染症研究所は「抗生剤の投与は意味がない」と明言している。
http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k01_g2/k01_27/k01_27.html

抗生剤の薬効・副作用についてのその他の情報 http://www.naoru.com/kaze.htm

ヒブと肺炎球菌のワクチンに関する小児科医の意見 http://miyakesyounika.blog120.fc2.com/blog-entry-594.html

2011年6月15日

福岡でフランス哲学を

西南学術研究所の掲示板で「福岡でフランス哲学を」というシンポジウム(第3回)のポスターをみつけた。

今週土曜日は補講&会計監査だから行けないのだけれど、盛会で、次回以降も続きますように!!

2011年6月18日(土)10〜18時 於 九州産業大学

2011年6月13日

音楽的に大満足な一日

今朝はBSプレミアムの「クラシック倶楽部」でカレファックス・リード・クインテットコンサートを聴いた。
個人的に編曲ものは苦手なので《くるみ割り人形》のジャズ版は、やめてくれよぉ〜状態だったが、エリントンの《ジャンプ・フォー・ジョイ》はとてもよくて、とくに2名のソロ以外の3人がステージに腰掛けてリラックスしている姿は、とっても素敵だった。その3人が最後のトゥッティのところで座ったまま演奏に加わる様子は、音楽を立体的に聴かせる素敵な演出だ。

3限の「文化創造論」は、ホール見学。
学院所有のホールインフラ(大学チャペル、西南コミュニティーセンター)の特性を理解し、地域との良き文化的交流をはかるためのイベントの在り方について考える、という学習課題で、2会場を使う時のコツみたいなのを話しながら、2会場の表裏を歩いた。
この科目は、アートマネジメントや文化経済学の領域で、明瞭な業績をもたない私にとって、まだまだ苦手科目なのであるが、今日の1回分だけはとても満足な内容だった。

しかしなんといっても、その満足さは、チャペル見学の最後の20分間、学院音楽主事・安積道也氏がオルガンレクチャーをしてくださったことによるところが大きい。
北ドイツ様式のオルガンがおおまかに4部分で成り立っていること、音栓(ストップ)の操作で音色やレジスターが変わっていく様子などを、実演によってわかりやすくお話くださって、しかも、その内容が響きとして感じられるように、バッハのトッカータとフーガ d mollと小フーガg mollを弾いて下さった。

ああしあわせ。

2011年6月12日

ウルフはだめ

「子育て応援の店」リストに載っている美容院で髪を切ってもらった。

スタイルを変えるつもりはないんですけれど、前髪を片付けたいのと、バックの毛先を少し軽めにしていただこうと思って・・・と希望を伝え、さやかを抱っこしたままシャンプー台へ。こういうところは、すごく助かる。

そしてカット開始。

「あら? 今何しているんですか? サイドをそんなに短くすると・・・」
「はい、ウルフにしてます」
「え”狼、それはとても苦手です」
「でも夏だから軽いかんじにするのが良いと思うんですよ」
「だめです! ウルフヘア独特の、ワイルドセクシーなかんじは絶対に苦手なんです。どうにかしてください、いっそのこと、そろえちゃってください!」
と懇願した結果、なんかすごく貧乏風味ただようショートヘアになった。

それにしても「スタイルを変えるつもりはない」と言っているミディアム・ウェーブの人間を、突然ウルフヘアにするというのは、いったいどういう見識なんだろうか。

あんなおそろしい店には二度と行くまい。

2011年6月9日

破れ鍋のことば

私は九大に居たおかげで、役所向きの「書類づくり」のなんたるかを学べた。
ここ西南では「文章」のなんたるか、をいつも感じさせられる。
そして、学内向けの媒体における文章が、珠玉の輝きをみせるところが、西南のすばらしさだ。
つまり損得抜きの知的鍛錬。

今月の「月報」では、深谷潤先生と和田光昌先生のエッセイがすばらしい。
美しい絵を味わうに、私は模写する以外のすべをもたない。
そして美しい文章や高い認識を味わうには書き写す以外のすべをもたない故、またまたブログがうつしまくりコーナーになるのであるが・・・。

舞鶴幼稚園長を6年間つとめられた深谷先生は、舞鶴幼稚園が、課外授業・預かり保育・給食・通園バスといった、大人向けの「保育サービス」を二の次にしてきた背景にフレーベルの言葉「Komm, lasst uns unsern Kindern leben!(さあ、私たちの子どもらに生きよう!)」があったことに触れ、しかしそれでも社会がもとめてくる様々な変革を前に、「変わらないために変わらなければならない」とも感じていたこの6年間を振り返って、コリントの信徒への手紙(II 4:16)から「日々新しく」という言葉を引く。
だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。(コリントII 4:16)

和田先生の文章は、『ボヴァリー夫人』から「人のことばは破れ鍋のようなもの」という一節を紹介した後、家業のお手伝いをしていた子供時代の手仕事における沈黙にふれてから、以下のようにつづく。

 このとき、わたしのなかには、ことばたちが、決して表に出ることはないまま、うごめいていたような気がします。未分化なままのことばたちで充たされているという快楽があったのです。それが奇妙に充実した時間としてよみがえってきたのでした。
 ことばは、ことばとして外に出る前までは自己肯定感を与えるよすがとなっていたのに、いったん、ことばとして発せられると、こわれた道具になってしまい、ひとを裏切ることしかしない。破れ鍋のことばの無力と、沈黙のなかに満ちている未分明なことばの万能感。このような両極端のあいだを揺れ動きながら、それでもとにかく使わざるを得ないものがことばなのではないでしょうか。教師として、わたしの使っていることばが、破れ鍋ではとたえず反省するとともに、学生の沈黙に出会ったとき、そこに存在の充実を認め、未分明なことばのうごめきを感じとること、そして、いったん外に出てきたことばには、そのあらわれのひび割れ加減に驚かず、むしろ常態であると受け止め、破れ鍋どうしをぶつかりあわせ、きしませることで、かすかながらも沈黙のことばの充実の名残をかぎとれるようにすること、どのような態度が重要なのではと思った次第です。

ある同僚がこういうのを書いていて、ほかの同僚がそれを読む。
こういうのこそがFaculty Developmentである。
これがFaculty Developmentでなくて、なんだろう。

2011年6月8日

西南中高にて音楽教員の募集

勤め先の西南学院にて、以下の条件で、中学校・高等学校 芸術(音楽)科の専任教諭を募集いたしております。
(1)キリスト者又はキリスト教に理解のある者
(2)讃美歌指導及び礼拝奏楽ができる者が望ましい。
(3)中学校及び高等学校(音楽)教員免許取得者(取得見込も可)
(4)2012 年 4 月 1 日現在満 40 歳以下(経験不問)
募集要項=http://www.seinan.ed.jp/hs/news/saiyou/kyouin2012c.htm

西南学院は福岡空港から約20分。
「サザエさん」発案の地である百道浜に面しています。
とても住みやすく働きやすい職場だと日々実感しています。
多数のご応募、お願いいたします。

2011年6月7日

夜遊び

さやかの夜遊び1ヶ月。
夜、オムツ替えの時に目をさまして、そのまま90分または2時間、遊んだり、歌をせがんだりする。
こちらは喉がやられて声がボロボロ。
同僚は、嵐のように「たいへんね〜」と声をかけてくれるが・・・

昨日は、母のいるグループホームと「施設サービス計画諸」をかわした。
今は、食事・レクリエーション・入浴介助・就寝介助などの「共通サービス」に加えて、「個別サービス」として、1日3回の口腔ケア、1日2回の洗面介助・更衣介助・関節のリハビリ、さらに、夜中1時と5時を含めて4時間ごとにトイレ誘導をしてくださっている!

感謝につきる。
私なんか、さやかが「うにゃ」と声をあげて初めて、オムツ替えをしているのだ。

がんばろう。

2011年5月20日

チャリティコンサート(6月27日)


西南学院大学チャペルにて、多様な楽器奏者の夕べを開催することに。

東日本大震災に接し、なにかできることはないか、というチャリティコンサートの志が、邦楽器・クラシック・ジャズの3ジャンルにまたがる音楽家から出てきた企画なので、ゴチャゴチャではいけないな〜、というのが懸念点だったけれど、吉浦勝喜先生の采配で「各ジャンルが独立した3つのミニコンサート」という体裁にすっきりとまとまった。

国際文化学部の主催名義も無事取得。


仮チラシをそえて、宣伝いたします。

九州の音楽家が西南で
今できること 祈りとともに
               彼方に届けるコンサート
 2011年6月27日(月) 於 西南学院大学チャペル

第1部 18:00 笛三態
山崎箜山(尺八)、辻香苗(フルート)、大坪由香(リコーダー)、みやざき都(箏)、安積道也(オルガン)
第2部 19:00 室内楽
中川淳一(ピアノ)、徳山奈美(オーボエ/九州交響楽団首席)、山下菜美子(ファゴット/九州交響楽団首席)、タラス・デムチシン(クラリネット/九州交響楽団首席)、岡本秀樹(ホルン/九州交響楽団首席)
第3部 20:00 ジャズ
辻香苗(フルート)、柴田健一(ジャズトロンボーン)、埜口浩之(テナーサクソフォン)、丹羽肇(ジャズベース)、月岡翔生子(ジャズピアノ)



入場無料 被災地域支援のため、会場にて自由献金をお願いいたします。
主催:西南学院大学国際文化学部 
企画構成:日本音楽家ユニオン九州地方支部

2011年5月15日

アメリカ式オプティミズム

NHKオンデマンドで、遅ればせながら「スタンフォード白熱教室」をみた。

ブレインストーミングの回では、高畑淳子さんにそっくりのティナ・シーリング先生が、学生にパーティ立案の議論を展開させる。
誰かのアイディアの詳細を早い段階でチェックしはじめると、そのアイディアの可能性が花開かないので、「Yes, But」でなく「Yes, And」を言い続ける、というルールを与え、
「既成概念や技術的な限界に縛られず前向きに議論したからこそ宇宙でパーティを開けたんだと思います」「その通り!」とか言って喜んでいる。
この妙な達成感はどこからくるのじゃ?

こういう番組は「アメリカ式オプティミズムに乗っかると危ない」の実例として鑑賞すべきだと思った。

すなわち、

高畑先生:こうしたブレインストーミングを済ませた後には何をすべきだと思いますか?
学生ブライアン:出されたアイディアを実現性の高低に照らし合わせるのはどうでしょう。
高畑先生:仕分けして見直すんですね。デイヴィッドどうぞ。
学生デイヴィッド:あるいはいきなり実行してみるとか。
高畑先生:試作するんですね。

というような、明るいオプティミズム。

このようなオプティミズムこそ、原子核反応のエネルギーで発電するというアイディアをふくらませるために、点検ミスやハリケーンや地震や津波の可能性に目をつぶる空気の温床ではないか。
原子力発電所の「試作」は実作にほかならないわけだが、せっかく建設地域の住民が反対してもIF THE SCIENCE DOESN'T PERSUADE THEM, MAYBE THE YEN WILL(科学が説得しなくてもお金が説得してくれるでしょう)」という恐るべき現実が待っている。
(上記リンクは、九州電力の玄海プルサーマル計画が展開するプロセスをウィキリークスが公開したもので、「糸島の風」に対訳がある)

批判検討ができないdaydreamプランを、大人のミーティングの結論にするなど、あんまりである。
小学校のホームルームの時間に「みんなでパーティを計画してみましょう」ということを言って、ある班が「宇宙でパーティ」という結論にたどりついたときに、「とっても斬新なアイディアですね!」とほめるのはアリだろうが、大人を相手にして、宇宙でパーティなどという使えないプランを持ち上げないでほしい。

さやかが、糸くずを差し出してくれるたびに「よくできましたぁ! ありがとう!」と言うのは、彼女がまだ1歳の赤ちゃんだからである。

2011年5月11日

音楽活動リンク

音楽の友  コンサート情報 http://www.ongakunotomo.co.jp/concert/
音楽之友社 中止公演情報  http://www.ongakunotomo.co.jp/kagutsu/k54.html
webぶらあぼ 明日から7日間 http://search.mde.co.jp/
来日予定楽団のリスト http://tuhan-shop.net/classic/rainichi/2011rainichi-oke.html
光藍社 http://www.koransha.com/

アクロス福岡 http://www.acros.or.jp/
あいれふホール http://www.kenkou-fukuoka.or.jp/event/
末永文化センター http://www.suenaga-bunka.or.jp/concert/index.shtml
日時計の丘 http://hidokei.org/event.php
ミュージックギャラリー福岡 http://musicgf.co.jp/archives/category/event
佐賀市文化会館 http://www.shinpoo.jp/ticket/maeuri.html
シンフォニア岩国 http://www.sinfonia-iwakuni.com/
iichiko総合文化センター http://www.emo.or.jp/
アルカスSASEBO http://www.arkas.or.jp/
みやまコンセール http://www2.synapse.ne.jp/miyama/
メディキット http://www.miyazaki-ac.jp/

長崎県大村市 シーハットおおむら http://www.seahat.jp/
佐賀県西松浦郡有田町 歴史と文化の森公園 炎の博記念堂 http://www.honoo-arita.com/

ヒューブリスについて

月報717号で、安河内英光先生の文章を読む。
大学人は、こんなふうに語らなければなあと思う。
以下は、私の学習のために書き写し行為(模写作業)を行った結果、中盤以降の引用テキストができあがっちゃったもの。

大地震と津波による自然の猛威と破壊力のすさまじさには恐怖と驚愕を感じ、人知を超えた地球規模の動きには人間の卑小さと脆弱さを痛感させられ、被災された人たちには心が痛みました。ですが、原発事故は人災ですから、何ともやりきれないほとんど憤りに近いものを感じます。
(中略)
核燃料のプルトニウム239は半減期間が24000年で、太陽から非常に遠い宇宙の彼方にある冥王星の英語名Plutoにちなんでつけられたものですが、ギリシャ神話では、Plutoは死を司る神を言います。核は人間を超えたもので、ある意味で、神の領域にあるものと考えるべきで、卑称で脆弱で愚かで誤りやすい人間が神の領域に手をつけてはならないのです。原発は、核分裂によって生じる巨大なエネルギーを原爆に使うのでなく平和利用に使うのだ、と言って造られ始めたのですが、人間は愚かで誤りやすい存在ですから、平和利用といっても、いつか大失敗をしでかすのではないかと強い危惧の念を抱いていました。それが現実となり、今回の事故となって現れました。宗教や大自然という人間を超える大きなものに対する畏怖の念をなくし、人間が神の領域に手をつけることや神々に対する傲慢不遜な態度をとることをヒューブリス(hubris)と言いますが、まさに、今回の事故は、人間のヒューブリスが起こした大災害であり、それを行った人間の行為は大罪です。
 18世紀以来の西洋近・現代と過去100年の日本は、人間の理性と科学と合理主義を重視し、これが産業主義と結びついて、人間の感情、感覚、本能、創造、空想等を心の片隅に抑え込み、文化や伝統を壊し、物質的な豊かさを求め、その豊かさがあたかも幸福につながるような錯覚をして、暴走してきました。その典型的で最悪の結果が、原爆であり原発です。私たちは、経済成長優先主義の政治や教育、物質的な豊かさや安楽さを追い求める人々、消費主義をたきつける社会等と、これらの背後にある近・現代全体の思想や理念を改めて根底から批判的に検証し、これらを根本的に見直す政治、経済、文化の在り方を考えなければならないでしょう。

2011年4月30日

Me too

学生を前にユーモアあふれる講演をしたかったのだろう、とは思うが・・・。

先日のチャペルアワーにて「Who is Jesus?」という講演があった。
登壇したのは、近隣の教会にて奉仕する米国人の牧師。

森喜朗元首相とクリントン元大統領の「Who are you?」「I'm Hillary's husband」「Me too」という逸話を枕にしてお話がはじまった。

講演を聴き終えた後、なんかすごくイヤなかんじを覚えた。
「Who are you?」事件そのものが捏造だが(ja.wikipedia.org/wiki/Who_are_you_?捏造報道)、そんなこと知らなかったのに、あのイヤなかんじ、どこから来ていたのだろう?

最大の理由は、本題のはずの「Who is Jesus?」が、たいした話になっていなかった(ように記憶する)こと。
何の説明もなしに、ただ「イエスは私たちのあがないぬしのお方です!」と連呼しているだけだった(ように記憶する)
そこで聴衆の一人としては、前振りのWho are you?ジョークしか思いつかなくてWho is Jesus?っていうタイトルにしたのか、と邪推いたす次第である。

第二に、まあちょっと大げさだが、しかし仮にも一国の元リーダーの品格にかかわる話題だということ。欧米人は、民族をネタにしたジョークや公人をネタにしたジョークが大好きなので、森さんの失言ネタくらい、古かろうが嘘だろうが楽しければ構わないっていう考えなのかもしれないが、かりに日本人の牧師がアリゾナ州あたりに移り住んだとして、そこのカレッジ・チャペルの招待講演でクリントンの"不適切関係"を今更もちだして、それを前振りに講話するなんてことアリだろうか? ブーイングが起こるんじゃないかしら。

しかし、そもそも「Who are you?」事件を捏造・広報したのは、日本のジャーナリスト。
それが私個人の誹謗中傷で済むならいい。(中略)しかし、そういう報道が日本の総理大臣、ひいては日本そのものを貶めているのだということを考えて欲しい。
とは森の発言。
私も(Me too)そう思う。

2011年4月22日

若草の

子育てのことで、我が夫の考えに感動した。

そもそもは、同僚のイトーせんせが
「ウータン在外研究しないのもったいないよ。休んで研究できるでしょ。子どもも幼いうちに海外経験させとくとモチベーションが違うよ。ま、在外研究とらないんだったら、ボーディングスクールに入れるのもいいけど」と語ってくれたのである。

グローバリズムには負けないぞ、と小さな反抗心を発揮して、まずは抵抗してみる。
「寄宿学校に入れちゃったら手塩にかけて育てるっていうのができないでしょう?」

すると、イトーせんせは更に「日本は高校まで手元で育てるっていう意識が強いけど、その分、反抗期とかいって無駄なエネルギー使うでしょ。欧米は、12か13で自立させて、集団の中で克己に集中させるんだって」と語ってくれたのである。

単純な私は、おおおおおお、なるほど! と納得し、さっそくガイドブックを注文して、夫に「10年後ぐらいの話なんだけどね、さやかちゃんの反抗期のエネルギーを集団の中で克己に集中させるのよくなぁい?」と話しかけてみた。

すると、若草の夫いわく
「いや、親とまともに対決するプロセスもけっこう大事なんじゃないの? 反抗期のエネルギー、俺たちで受け止めてやろうぜ」
本件2度目の、おおおおおおなるほど! である。
この人の考えに、ちゃんとついていこう!

さて、それから2日ほどしてガイドブックが届いた。
いろんな学校の素敵な風景が載ったキレイな本。
体験談を載せていたのが、高田真由子さんで、よかった。
もっと好きなタレントが海外のボーディングスクール卒業生だったりしたら、単純な私の視野は、またまた揺らいだかもしれない。

2011年4月20日

学部・年次不問について

福岡市保育協会が、再来月、「保育士を目指す皆さんはぜひご参加下さい。」として就職説明会を開く。
フレンドリーなかんじの丸文字で「学部・年次不問です!!」と書かれているが、「保育士を目指す皆さんは」の時点で、保育資格が必要なのである。(この書き込みに先立ち、念のために協会に電話して問い合わせた)
少なからぬ学生が、このあたりを把握せずに、連日ドカドカ授業に「公欠届」をだして、いろんな就職説明会に出かけ、「なーんだ資格いるんじゃないですか」ということに驚きながら帰ってきたりする。

「○○を目指す」っていうのは、ずっと気にかけることなんだよ。
つまり、前から「○○」になりたいと思って、そのために整備された資格とかは当然とっておくっていうことなんだよ。

卒業時には学芸員資格と教員資格をとれる見込みですけれど学芸員も教員も競争率が高くてかなり危なくて、たまたま説明会のチラシみた時にちっちゃい子を保育するのもいいなぁと思って、チラシに学部・年次不問と書いてあったので説明会に来てみました、という方は、はじめっから対象外なんだよ。

説明会に行ってからガッカリしないように、こういうこと、おぼえておいてね。

2011年4月17日

もつ鍋を食すも尚クダをまく

昨日は、楽理科受験志望なる高校3年生と面談。
エネルギーをすいとられて、夫に「エネルギーのわく外食につれてって」とせがみ、もつ鍋の「たま木」へ。
夫婦2人・お酒なしで7000円分も平らげてしまった。馬鹿である。おかげで、昼過ぎても、まだ胃が重い。
このうえは、心のクダ巻きを文字化することにした。

ですから、この投稿は、単なるクダです。


その高校3年生について1週間前に知人から紹介をうけた折の話は、以下のような、よくあるナメきった進路相談であった。下線部は、I have a dream! という慣用句、ならびに、従属接続詞「ので」、等位接続詞「そこで」の間違った用法である。
私には夢がある。音大へ進み、大学卒業後に仏コンセルヴァトワールへ留学したいという夢である。しかし先生の家が遠くてあまりレッスンに通っていなかった。久しぶりにレッスンに行ったら芸大器楽科に受かる見込みは薄いと言われた。芸大の校舎をみて以来、校風が自分に合っていると感じていたので、とても残念である。そこでとりあえず芸大の楽理科へ行こうと思うので楽理科小論文のヒントを!」

メールで、「演奏をやりたいなら楽理科に転向するよりも、まずは私大器楽科に入って2年生で芸大器楽科を再受験するのがよいのでは?」と伝えてみたが、「いやいや楽理科もまじめに気になっているので面談を」との要望を受け、昨日、2時間半だかの遠路をおしてお目見えいただいた次第。

ところが会ってみると、第1希望を某県芸器楽科とし、第2希望を某県立語学科に、という方向に変わったそうである。理由は「両親から私大に行ってはいけないと言われたので・・・」。

がくりか卒だけにガックリきながらも、ともあれ対話を試みるべく、「それが一番ね。でも楽理科を受けないことにしたなら、今日何か聞きたいことある? なかったりして?」と水をむけてみる。
「はい、とくにないんです」(ジュースを一口)。

大事な週末を器楽の練習にあてず、用のなくなった学科の話を聞きにきているユルさに驚愕した。
あえてプラスの方向をくめば、義理堅さゆえに面談の約束をこなしたとも解釈できようが、暖簾に腕押しの面談なんて無いほうがありがたいので、そんな義理ははたさなくてもよいのである。

夢があるなら、その夢に自分の現状を近づけてくれるように望む。
あるいは、現状をふまえて未来の希望を構築してほしい。

2011年4月9日

鷲のように

職員向け月報で、院長巻頭言を、久しぶりに熟読した。
ここ7〜8ヶ月ほど、「経営方針はこうです」的なトーンが強かったので、期待はずれの落胆におそわれるとともに、法人経営上の重圧っていうのはよほど大きいんだなあ、などと推察する思いが前面にきてしまっていた。
しかし、今回は久しぶりに、院長ご専門の神学をもって時事への向き合い方を示す内容だった。
ああよかった。

以下、抜粋をメモ。

今年度学院のモットーとする聖書の言葉を選びました。
ここでご提案させていただきたいと思います。
.   「主に望みをおく人は新たな力を得
.    鷲のように翼を張って上る。
.    走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ書第40章31節)
ここでは、信仰は世界や自己についての認識や解釈の事柄としてではなく(第二義的にはそれも含みますが)、第一義的には何よりも、「主に望みをおく」生き方・姿勢であるとして語られます。
(中略)
東北関東大震災を思わずにいられません。(中略)私たちに期待されていることは、パウロが言うように「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ロマ12:15)ということではないでしょうか。
「鷲のように翼を張って上る」という力強い姿勢は、決してエゴイスティックで排他的なものではありません。本当の強さは、愛によって仕えることだと思います。主に望みをおくことによって得られる力を求めたいと思います。

2011年3月28日

投票日まで

時間があまりないので、TwitterとおなじことをBLOGにも。

吉村裕美さんが県議会に立候補することになった(大野城市選挙区)。母のグループホームでお世話になっていて、ビジョンも伝え方も、とても魅力的な女性。

彼女が「人に伝える」「主張する」立場に行くこと、応援したい。

http://hyoshimura.web.fc2.com/

読まれざる資料たち

来年、在外研究応募のチャンスがある。
が、わが家の場合、私が在外研究を望むと家族離散をもたらす。

さて今日、ICCS2006のカナダ滞在中に撮影した資料を整理してみて、あと数年は在外の必要がないと結論。
私の研究上の幸せはこれを読むだけでも十分満たされるであろう。

久しぶりにこの領域をみるので、1975年の『シークエンス』編集陣による素晴らしい作表「53作品の分布」を日本語で写してウォーミングアップ。

《Rumba》《Short and Suite》《Mony a picle》は、知らないか覚えてない。

現時点でやりたいこと。
・《Spheres》の「等速度」の検証。
・《Lines Vertical》のドゥープシートの設計意図について、できれば式をつくる。
・《Mosaic》のリズムとり。
・《Begone Dull Care》《Serenal》の比較。
・《Ballet Adagio》を元の音楽にもどす。

2011年3月22日

まほうのことば

日曜日。
Church Schoolにきた小学生と幼稚園児の会話。
「このごろ、こんにちワン! って、うるさいよね〜」
「地震の後はふつうのCMできないからACなんだって」

震災後のテレビがACばかりになったのは、
被災している方々がいるときに、自社製品の広告などできない、という思いの表明なのであろう。
むかし、昭和天皇の崩御にあたり「歌舞音曲はさしひかえること」と文部省が通達していたのが思い出される。

命が危機にさらされている!
物資がたりない!

そんなとき、実用品なり飲食料なりの紹介はNGで、「こんにちワン!ありがとウサギ! まほうのことばで楽しい仲間が〜♪ ポポポポーン!」なる歌をガンガンならすのはOKという意識は、的外れではなかろうか。
(なおロングバージョンはこちらhttp://www.youtube.com/watch?v=Bsk2ioK0Lrg

加えて、「思いは見えないけれど思いやりはだれにでも見える」というAC広告も、繰り返されるたび、どうも気持ちがわるい。この気持ち悪さは、「見える化」の姿勢を横行させた、無遠慮で無神経なグローバリズムへの違和感でもある。

善意や修身の「見える化」をきらう感受性は、論語にも枕草子にも歎異抄にも江戸川柳にも、いっぱいあったはずなのだが、教養不足ですぐには引用できないので、とりあえず手近に検索できる聖書本文から引用しておく。

>  「施しをするときは、右の手のすることを左の手に
>   知らせてはならない。」
>   But when you give to the needy, do not let your
>   left hand know what your right hand is doing
>               (マタイ6章3節)

>  「断食するときには、あなたがたは偽善者のように
>   沈んだ顔つきをしてはならない。(中略)あなたは、
>   断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい」
>   When you fast, do not look somber as the hypocrites do [snip]
>   But when you fast, put oil on your head and wash your face,
>               (マタイ6章16-17節)

日本語引用元:http://www.bible.or.jp/
英語引用元:http://www.biblegateway.com

2011年3月15日

救援物資災害について

はがゆい毎日。
ここに毛布が2枚ある。
届けたいのに・・・・。はがゆい。

私がハリソン・フォードだったら、自家用ジェット機で救援物資を届けたり被災者を助け出したりできるんだけど・・・。

救援物資災害については、知人のtaeさんが、とても簡潔に解説している。
あらためて気をつけたいものである。
http://ameblo.jp/salan-hbd/entry-10828633488.html

2011年3月14日

義援金・物資についてメモ

  • 福岡県庁は、物資がパンク状態となり、物資受付をストップして現地からの要請まち。
  • 現地への県警機動隊派遣は、放射性物質の防護服不足で中止。
  • 西南ボランティアセンターは義援金受付を検討中。
  • 日本赤十字社のホームページには義援金受付口座が未掲載だが、県支部単位での窓口が報道機関により提示されている。http://www.topics.or.jp/
  • 義援金寄付の寄付控除情報 http://allabout.co.jp/finance/gc/13948/

2011年3月11日

せんせいとおともだち

音楽学と人生の先輩ドレスデンさんが、確定申告が終わったとブログに書いていたのを起爆剤として、いざ確定申告にとりかかり、レターパックで税務署に送った。

フルに収入のあった2009年の収入にもとづいて、育児休業で収入半年分の2010年の収支をチェックするわけなので、ついに申告納税かとドキドキしていたが、出産費用が医療費控除になるという有り難い制度の恩恵により、ギリギリ・セーフ。還付申告にこぎつけた。

これに要した純作業時間は150分。
なんだ、後回しにしないで、さっさと済ませればよかった。
https://www.keisan.nta.go.jp/h22/ta_top.htm

さてここ数日、車のオーディオに、ブダペスト四重奏団のベートーヴェンのCDを入れている。
1958年のチョー古い録音。

さやかは、第2番の第3楽章にくると,きまってニッコニコのピッカピカになる。

もしかして、保育園の「朝の会」で親しんでいる曲と重ね合わせているのであろうか。
「主和音の分散 + 上方順次進行」でニッコニコになれるのであれば、ゴキゲン曲の候補はいくらでもありそう。

2011年3月10日

つまずき

新教出版社の『聖書辞典』から「つまずき」「つまずきのいし」をノートしていて、レビ記19章の記述を印象深く覚えた。

.   耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、
.   目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。
.   あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。
.               (新共同訳)
ただ他人を悪く言ってはならない、ではなく、耳の聞こえぬ者を悪く言ってはならない、という記述は、悪く言ってよいのは相手の耳が聞こえる場合にかぎってである、といっているようだし、ただ他人の前に障害物を置いてはならない、ではなく、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない、という記述は、障害物を置いてよいのは相手の目が見える場合にかぎってである、という認識を示すと思う。

勝負事なら「リベンジの可能性のある形で勝負しなさい」ということに、学問なら反証可能性に、相当するであろうか。

文語訳では「汝聾者(みみしひ)を詛ふべからずまた盲者(めしひ)の前に礫物(つまづくもの)をおくべからず汝の神を畏るべし我はエホバなり」
口語訳では「耳しいを、のろってはならない。目しいの前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」

ただし、手元の仏語聖書には、接続詞maisが入っていて、
Tu ne maudiras pas un muet et tu ne mettras pas d'obstacle devant un aveugle, mais tu craindras ton Dieu. Je suis Yahvé.(耳の聞こえない人を非難したり、目の見えない人の前に障害物を置くのはよして、あなたの神を畏れなさい。私はヤハヴェである)
それゆえに、これとこれはダメの禁止の文言というより、「自分の周囲のあれこれについて愚痴を言っていないで、神さまへの畏敬を心に留めていなさい」という文言のようにも聞こえる。


躓き
信仰上の理解を妨げるものの比喩的表現。元来「躓き」という言葉は、レビ19:14にあるように、路上に置く障害物を意味したであろうが、預言者たちによってイスラエル人の神への服従の道をさまたげるものを表すために引用されている(イザ8:24, 38:7, 57:14, エレ6:21, 18:15)。
新約では、とくにキリスト、救い主が人間のかたちをとり、人間の生活をするお方として現れたことが、躓きとなったことを、イエスご自身の言葉として伝えた(マタ11:6)。さらに贖いのための神の子の十字架の死が、信じない者にとっては大いなる躓きとなることをパウロは言っている(ロマ9:32, Ⅰコリ1:23)。

躓きの石
人生を旅路にたとえた時、障害を及ぼす行為や概念を比喩的に表現するのに、この言葉を用いる。旧約では預言者(イザ8:14, 28:7, 57:14, エレ6:21, 18:15)、シンヤクデハパウロの手紙などに(ロマ9:32-33, Ⅰペト2:8)、またイエスの教えの中にも引かれている(マタ13:21, マコ6:3, ヨハ6:61等)。


レビ19:14 耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。
イザ8:14 主は聖所にとっては、つまずきの石/イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩/エルサレムの住民にとっては/仕掛け網となり、罠となられる。
イザ28:7 彼らもまた、ぶどう酒を飲んでよろめき/濃い酒のゆえに迷う。祭司も預言者も濃い酒を飲んでよろめき/ぶどう酒に飲まれてしまう。濃い酒のゆえに迷い/幻を見るとき、よろめき/裁きを下すとき、つまずく。
イザ57:14 主は言われる。盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。わたしの民の道からつまずきとなる物を除け。
エレ6:21 それゆえ、主はこう言われる。「見よ、わたしはこの民につまずきを置く。彼らはそれにつまずく。父も子も共に、隣人も友も皆、滅びる。」
エレ18:15 しかし、わたしの民はわたしを忘れ/むなしいものに香をたいた。彼らは自分たちの道、昔からの道につまずき/整えられていない、不確かな道を歩んだ。
マタ11:6 わたしにつまずかない人は幸いである。
マタ13:21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。
マコ6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
ヨハ6:61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。

ロマ9:32 なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。
ロマ9:33 「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。
Ⅰコリ1:23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
Ⅰペト2:8 また、/「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。

2011年3月9日

トークに反応する花粉症

もろもろの血液検査をするうちにIgE500と出たので、ちょっと多めに血液採取してアレルギー要因を調べてみましょうか、ということになった。
結果は、スギ花粉へのアレルギー危険度が5度(5段階評価)、ネコが4度。
これまで、それほど酷い花粉症になったことはないのが不思議。
ネコもたいがい大丈夫で、唯一、大学受験準備に通っていた中内塾のニャンだけが涙の元だった。

さて近頃、ラジオのパーソナリティ達が話題につまると花粉症・花粉症を連呼している。
それは一見、現実の反映でありそうだが、彼らが花粉症につづけて出してくる話題はけっこう非現実的で、私の「小姑根性ボタン」を刺激してくる。
たとえば・・・・・

.  今日も良い天気ですね〜
.  ただ花粉症の皆さんは毎日おそろしくて一歩も外に出られなかったりして(笑)
.  自宅にこもって暗〜い気持ちになっちゃいそうな日が続いたら
.  この際、DVDを観る、っていうのもいいんじゃないでしょうか。
.  一人ヒューマン映画に涙したりぃ、
.  家族一斉に花粉症なんて場合は、みんなでコメディに笑い転げる、のもいいですね。

貧乏暇なしの人生を送ってきた者として、「家族みんな花粉症故に一歩も外に出られない毎日」というような貴族的有閑ソサイエティを前提にしたトークにはカチンときて、それゆえ、くしゃみの一発でもして鼻をかみたくなるのである。

花粉症トークに反応してくしゃみがでるのも、花粉症症状の一つなのだろうか?

2011年2月28日

失われた2月

この冬は3度も肺炎を起こして、家族に迷惑をかけた。
というか、まだかけている。

11月にかかった喘息専門医のM先生は「アンタ喘息もちなんやけん、風邪ひいたら気管支や肺に問題おこしやすいの当たり前たい」とコメント。
1月にかかった食養創健主義のS先生は「3〜5年かけて体質改善するけれど今はチョコレートでも何でもいいから口にいれなさい」との指導。
授乳を断念して抗生物質を飲み10日たつも、2月に入ると胸が焼けるように痛くなって福岡病院で検査。
WBC13440、CRP6.5という値まで、はねあがっていた。
入院をすすめられたけれど、さやかとはなれたくないゆえ、点滴通院方式で治療。
私の2月は、病の治療に消えてしまった。

点滴は、毎回針がささりにくくて、3〜4回の刺しなおしをする。
看護婦さんいわく「血管もねえ正直なもんでねえ、体調の悪い方の血管は、ホントに刺さりにくいんですよねえ」。
とはいえ、体調の良い患者に点滴などすまいから、みんなボコボコの穴だらけにされているのであろう。

喘息治療で定評のある南福岡病院は、今は「独立行政法人国立病院機構」の福岡病院というものになっている。
「独立行政」で「国立」っていう名前のつきぐあいが興味深い。
スタッフの皆様の就業におかれましてはおそらくいろんな問題をはらんでいるのだろうねえ。

2011年1月27日

吾輩は会議室である


ということにすれば、学生に「面談アポイントメントを早い者勝ちで入力してもらう」ことができる、という見解に達した。

「吾輩は会議室である」という言葉が浮かんだ時、近頃の違和感ある現象について思い出した。

メールの末尾に「iPhoneから送信」と書く現象。
iPhoneやiPadのメール仕様は、こんなふうになっているのであろうか。

末尾に「iPhoneから送信」や「名字@iPad」ぐらいならまだいい。
メールの頭が「皆さんこんにちは、マックブックプロ名字13"です」で始まって「それでは以上です。長文失礼しました。マックブックプロ名字13"」で終わるとか、「こんにちは、アイフォーン名字です」で始まって「以上、アイフォーン名字よりご報告でした」で終わるといったメール・スタイルは、私にはとっても気持ち悪い。
あるテキストがどの端末から発信されたものかなんて、発信元をみれば推測できるものなのに、自分の名前をはさんだ機材名を書くなんて、『Understanding Media: The Extensions of Man』をしのぎ、『Understanding Man: The Extensions of Media』の段階に達したか、の感がある。

さて、2月15日にあいれふホールで開催される「演連コンサートFUKUOKA6」の解説の仕事で、たぶん初めて、イタリア古典歌曲の解説を書かせてもらった。今回のプログラムは「Caro mio ben」「Intorno all’idol mio」という黄金の2曲で始まり、バッサーニの「Dormi bella dormi tu」や、曖昧な悲しみと祈りをうたったトスティの「Tristezza」があり、その後、日本歌曲やフランスオペラの曲に続く。
イタリア古典歌曲については、音楽学校時代に何度かヒラオカさんの伴奏をさせてもらったおかげで、とってもとっても大好きな曲がたっぷりあるが、それにしても通俗的な名曲っていうのは、いい、いい、いい。アイアイアイアイあいしてる。
通俗的な名曲について、大スキ!、とってもとっても大好きよ〜 というのは、松本さんの講演会「夜のとばり」での宮崎さんの演奏でも感じたこと。ショパンの9-2とか、もう、ずっとずっとずっとずっとそばにいたい〜、ってかんじ。小難しい20世紀音楽の授業とかやめて、こういうのを聴いていたい気分である。ええい、いつの日かショパンの9−2について語れるようになってみせる!
このような野望を膨らませられるのは、小難しいブーレーズや大難しいファーニホウをゴリゴリ見つめてきた15年間があって、その後、採譜さえしてしまえばファーニホウなんかよりはずっと語りやすいマクラーレンにふれてきたからなんだろうが、ショパンのように直感的にこっちに届いてしまう「名曲」の美というものは、「で、語ってどうするの?」という問題もあって、とても困る。